第十四章 第一話
キャンプでの事件ではビアンカもジャスティンも怪我も無く無事に保護されて一件落着とは簡単には行かなかったようで、テリー・オルムステッド教育相より監督責任者として戒告処分を受けた校長ベル・オルムステッドは己を強く戒め、これ迄以上に安全で健全な学校運営を行うべく身重の身体ながら張り切っていて、これを機に休養に入り第一子出産に備えたらという夫でもあるテリーの願望も篭った言葉に首を振って、今日も校内を気ぜわしげに歩いていた。
六月が終わろうとしているW校では森の木々も濃緑の葉を繁らせ、燦々と降り注ぐ夏の日差しに校舎の白い壁が光を返して、窓ガラスを通しても肌を刺す夏の光にゆったりと縛った黒髪が艶やかに揺れ、ベルは少し眩しそうに手を翳して目を細めた。
学年末が間近い学校内では進級試験の真っ最中で、通りすがりに「校長先生こんにちは」と挨拶を返してくれる生徒達も本を片手に熱心に読んでいる事が多く、「廊下で読書は禁止よ。ちゃんと前を見て歩きなさい」と声を掛けて歩くベルの視界に、飄々とした顔付きで、此方は本は小脇に抱えたままで機嫌良さげなロドニーの姿が目に入って、彼が肩に担いだ異質な物に気付いて眉を顰めた。
「Mr.ロドニー・ワイズ」
「あ、校長先生。こんにちは」
校長に声を掛けられるとどうしても小言が頭に浮かぶのか、少し緊張した顔で返事をしたロドニーの顔をじっと覗き込んで、そして肩からぶら下がっている物体を差してベルは小首を傾げた。
「どうしてロープを持ち歩いているの?」
「ああ、これ。それがさ」
途端にロドニーは瞳をキラキラと輝かせて得意そうに笑った。
キャンプでの事件の時に、自分は崖下へ降下するのを禁じられたロドニーは崖上でロープの安全を確認する係をやらされたが、渋るビリーを学校で何かあった時にも絶対に役立つからと言って説得し、次の訓練の機会に降下訓練を受ける事になったんだと、ロドニーは得意満面で鼻を掻いた。
「でさ、教わったロープの縛り方を忘れない様に何時も持ち歩いて練習してるんだ。……いえ、練習してるんです」
慌てて言い直したロドニーの顔を見ながらベルは嘆息をついた。
「でも、余り危険な事は教えない様にとローグ教授には」
「いえ、校長先生。危険な事であっても必要な事なら、俺は学ばなくちゃならないんです」
そう答えたロドニーの顔は真面目そのものだった。
何時かは帰還を望むロドニーの故郷英領ヴァージン諸島には高層ビルなどは無かったが、標高五百二十mの火山性山セージ山があり、起伏に富んだ地形と島を覆う熱帯の木々を擁するこの島でも高所に於いて救助が必要になる場合もきっとある筈だと力説するロドニーの真剣な顔をマジマジと見返した後、ベルはもう一度嘆息をついた。
「分かったわ。でもそれで貴方が怪我をしてしまったら何もならないばかりか、この前処分を受けたばかりのローグ教授がまた処分を受ける事になってしまうのよ。くれぐれも慎重にね」
そう、監督不行届で処分されたのはベルだけでは無く、保護者として娘の安全管理を怠ったとされたビリーも行政から厳重注意処分を受けたばかりであった。
「も、勿論分かってるさ」
例え怪我したってそれは自分の不注意の所為でビリーの所為じゃ無いのにと内心では思っているロドニーは不満そうだったが、それでもビリーに迷惑は掛けたくないと思っているのか、小声で何度も「慎重に。慎重に」と呟きながら去って行くロドニーの後ろ姿を、ベルはため息をつきながらも微笑んで見送っていた。
「お前さ、何時来ても暇そうだよな。それで給料貰えてるって羨ましい限りだよな」
「あのな、お前は俺に喧嘩を売りに来てるのか? いや、喧嘩なら俺から売るから高く買ってくれ」
担当患者ウィリアム・シェリダンを見舞った後、ついでに寄った校内の寄宿舎で何時もの様に親友ビリー・ローグを前にしてお茶に呼ばれているジャスティンは、斜に構えてビリーを鼻で笑ったが、泰然自若なビリーは其れにも平然と返して逆に鼻で笑い返した。
ベルは心配していたがビリーはそれ程しょげ返ってはいない様で、ジャスティンを前にしても何時もの平然とした顔で、気儘にお茶を啜っていた。
「まぁ何はともあれビアンカが無事で良かったな。あの寒さの中で風邪も引かなかったし」
何気ないビリーの言葉にあの南国の熱い夜を思い出して、途端に顔が火照るのを感じてジャスティンは気取られない様に視線を逸らしてしらばっくれたが、平静を装って話題を逸らそうと必死に巡らせた頭の中に唐突に班長殿の顔が浮かんだ。
「そういやさ、班長殿フランスへ行かれてるらしいな」
「あ? ああ第二回国際コミュニティ会議だろ。前回は英国だったが今度はフランスらしいな。今回もS班が出張ってるって話だ」
「へええ。んじゃきっと班長殿と一緒でウィルソン中尉殿もレッド中尉殿もご機嫌だろうな」
「まぁな。今回は外敵も居ないし、警護とは言えのんびりしたものだろうな」
前回の会議の時に見せたS班員達の零れる笑顔をふと思い出して、ジャスティンはニヤリと笑ってビリーの顔を下から見上げた。
「あん時は笑ったよな。お前の焦り捲った顔見るの滅多に無いしな」
ジャスティンは途端に憮然とした顔になったビリーをケタケタと笑った。
前回行われた第一回の会議では、通訳任務を命じられていたS班が内緒でビリーの自宅を訪問し、男達で夜遅くまで酒を酌み交わし楽しい時間を過ごしたのだった。
「あれからもう三年も経つのか」
「ああ」
しみじみと呟いたビリーの言葉にジャスティンも頷いた。
月日が流れて行くのは本当に早いとジャスティンも思っていた。あの時の自分はS班の下っ端で、それがもう間も無く正式な医師となるのだと思うと、がむしゃらに突っ走ってきたこの道のゴールが間近となっても、まだその先には遠く霞む山の頂は遥か彼方に薄い影の様に揺れる気配を感じるだけで、けれど後ろを振り返れば今迄自分が歩んで来た道には確かに生命の息吹を感じる緑の草原が広がっていて、共に道を進むビリーとまだこの先の道も寄りつ離れつしながらも共に進んで行くんだとジャスティンは朧げに感じていた。
「もう三年じゃないな。まだ三年、そしてこれから先もだ」
きっと同じ事を考えていたのであろうビリーが、目を閉じてフッと微笑みを浮かべながら言った言葉にジャスティンも頷き返して、「だな」と温くなったお茶を旨そうに飲み干した。




