第十三章 第五話
避難小屋は歩き出して直ぐの場所でまるで二人を待ち構えていたかのように雨音を響かせながら静かに佇んでいた。
狭い部屋の中には木製の古い椅子が二脚放置されていて、部屋の中央に設えられた煉瓦を積んだ一角は火を焚く為の物と思われたが、部屋の中には薪は見当たらず、黒く煤けた灰が赤茶けた煉瓦にこびり付いていた。
「外よりはマシかな」
そうは言っても雨が降って来ないというだけで、冷え切った部屋の空気に吐き出した言葉も凍りつき、寒さでブルッと身を震わせたジャスティンは、ビアンカを手近の椅子に座らせた。
見るからに凍え切っている様子の彼女は今も小刻みに震えていて、色の変わった口唇の青褪めた色を見てジャスティンは眉を寄せた。
――このままじゃ低体温症になっちまう。
もう既に兆候の現れ始めているビアンカを案じたジャスティンは、迷う事無くビアンカに告げた。
「ビアンカ、着ている物を全部脱げ」
恐らくは雨に濡れた物を乾かす用であろう、部屋の隅に渡されたロープに無造作にビアンカの衣類を下げて、これが乾くのは期待は出来なかったが、ジャスティンはボマージャケットにすっぽりと身を包んだビアンカを振り返った。
「濡れた物を着続けてると体力が奪われるんだ。それは外は濡れてるけど、中は少しは暖かいだろ?」
「……うん」
力無く頷いたビアンカは椅子にちょこんと腰を下ろして、それでもまだ微かに震え続けていた。
雨の止む気配は無く、バラバラと打ち付ける雨音だけが響く部屋の中で、二人椅子に座り込んでじっと押し黙っていた。
夜が更けていく程に外気温は下がり続けているようで、自分自身も冷え始めた身体を持て余していたジャスティンは、青褪めた色が戻らないビアンカの顔をじっと見ていた。
――このままだとまずいな。
一刻も早く皆の元に戻ってビアンカを暖めないと、とも思ったが、既に闇の帳が下りた外は光も差さない黒い世界が広がっているだけで、先程感じた森の違和感も相まって、迂闊に動けば二人共倒れになって遭難しかねないとジャスティンは案じていた。
少しでも暖を取る為に残された手段は一つしか無く、決心した顔を上げたジャスティンはもう迷っていなかった。
表情が虚ろになってきたビアンカの眼前で、自分の白衣もズボンも脱ぎ捨てたジャスティンは、それも無造作にロープに引っ掛けると精気を奪われ掛けているビアンカの手を取って、床にべったりと腰を下ろすと、ボマージャケットに包まれていた淡銅色に輝く彼女の裸身を、自分の身体で包むように抱き止めた。
「……ジャスティン?」
微かな問い掛けにも手を休める事も無く、再びビアンカの身体をボマージャケットですっぽりと覆ったジャスティンは、ビアンカの身体をもう一度強く抱き締め直した。
「此処では他に暖を取る方法が無いんだ。少しでも身体を温めないと低体温症になって危険なんだ」
言い訳でも何でも無く、意識を失い掛けているビアンカを救うにはもうこの方法しか残されていなかった。
抱き締めたビアンカの身体も濡れそぼった自分の身体も、最初は温もりには程遠い冷たさしか感じなかったが、己の胸の中で赤々と燃えている炎が自分の身を燃やし尽くしてもビアンカの身体を温めてくれればとジャスティンは願っていた。
自分もジャスティンも何一つ身に纏わない姿で抱き合っているという現実を前にして、ビアンカは朦朧とした意識の中で戸惑いの色濃い瞳を泳がせて狼狽えていた。
膨らみ掛けてはいるがまだ固さの残る自分の胸がジャスティンの硬くひきしまった胸にぴったりと押し当てられているのが、次第に火照りを感じ始めた肌からひしひしと感じられて、大きく脈打っている心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかしらと、こんな時なのにビアンカはそればかり考えていた。
でも自分を身体の中に抱え込んで温もりを届ける事だけを考えているジャスティンの温かさが嬉しくて、ビアンカは両腕を回しても届かないその広い背中にしがみ付いて、心が解れる感覚を心地良く感じていた。
温もりが安堵に変わっていくに従って、ビアンカは自然と微笑んでいた。
――やっぱりジャスティンが来てくれた。
遠いロンドンに居る筈の、此処へ来る筈の無かったジャスティンだけが囚われの森に隠された自分を見つける事が出来るのだとそう思っていたビアンカは、そのジャスティンが自分を求めて、探して、暗黒の森に姿を見せた時の喜びがぶり返して、熱を帯びた赤い頬で嬉しそうに笑った。
抱え込んでいるビアンカの身体が熱を帯びたように火照っているのを感じて、ジャスティンは少し眉を寄せた。
もしかしたら熱発をしたのかもしれないと案じて、身体を離してビアンカの顔を真剣な面持ちで覗き込んだジャスティンを見上げて、ビアンカは蒼の瞳を潤ませて言った。
「ジャスティン、あのね。私ね、もう準備が出来たと思うの。もう赤ちゃんを産める身体になったから……」
最後には消え入りそうな小声で恥じらいで顔を俯けたビアンカをマジマジと見下ろして、その意味を悟ったジャスティンの頬も爆発したかの様に紅潮したが、じっと考え込んだ後もう一度ビアンカを自分の身体に抱き寄せて、ジャスティンは空を見上げて優しい声で言った。
「ビアンカ。まだだ。まだお前は準備出来てない」
困惑を眉に乗せて見上げたビアンカを見下ろして、ジャスティンは一層穏やかに笑った。
「確かに二次成長期が来れば、女子は生理が始まるし男子は精通も始まる。でもそれはまだスタートで、これからまだお前は沢山の事を学ばなければならないんだ」
穏やかに話すジャスティンを見上げて、ビアンカはじっと目を凝らして見つめていた。
「今迄のお前は子供だった。でも大人になる準備が始まった。そういう事なんだ。だから俺はお前が大人になるまで待つ」
そう言ってビアンカの頭をグリグリと撫でて、また大事そうに腕の中に収めたジャスティンは、吹っ切れた笑顔で笑っていた。
「……うん」
嬉しさと愛しさがこみ上げてほの温かい身体にまたしがみ付いたビアンカは、何かを思い付いたのか悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を上げた。
「そうだ。もっと温かくなる方法があったわ!」
戸惑うジャスティンに唇を寄せたビアンカは、体の中を駆け巡る灼熱の太陽が燦々と降り注ぐ光に包まれて、上気した頬は薔薇色に燃え、赤みを取り戻した唇で何度もジャスティンに口付けた。
吹き渡る風は海の香りに溢れ、濃密な花の香りに包まれたジャスティンも南国の風を感じていた。
――なるほど。トルトラ島だ。
緩やかに吹く南国の風が濡れそぼった自分の銀髪を優しく撫でて通り過ぎる感覚は夢幻の様でもあり、医師らしく冷静に低体温症の症状の一つでもある幻覚症状かともジャスティンは思ったが、何時も自分に吹くこの南国の風は幻でも自己陶酔でも無い事を経験的にジャスティンは知っていた。
身体の奥底から湧き出る燃え上がる熱情は冷えた体幹を瞬く間に暖め、ビアンカから漂う甘い花の香りに陶酔しながら浅黒い背中に手を滑らせているジャスティンに、不思議と劣情は影を潜めて微塵も感じられなかった。
其処にあるのは生の躍動であり、命の咆哮であり、絡まり合って繋ぎ合った二人の魂の昇華でもあり、身体を繋ぐ以上の身震いする陶酔感に包まれた二人は、言葉も交わさず、互いの存在だけを感じながら口付けを交わし続けていた。
凍て付く外気を寄せ付けないこの部屋だけが息の詰まる様な南の空気に包まれ、夜の帳の中でこの小さな小屋だけが、雨降る空から差す一筋の光に見出されて穏やかな陽炎がユラユラと揺れていた。




