第十三章 第四話
落下した地点にはビアンカが居ないという事は、恐らくは自身が持つ力で緩やかに崖下に到着し、広大な古代森の中を出口を求めて彷徨っているのであろうと判断したジャスティンは、愛車を駆ってその森の入口付近に車を止め、白衣の上に黒のボマージャケットを羽織り、肩掛けにした雑嚢の中に救急用医療キットを詰め込んで、車の中で履き替えた軍用ブーツの靴紐をきっちり締め直して、春の日差しが降り注ぐ穏やかな日にも関わらず、ほんの僅か先に視界の利かない黒い闇が広がる森へと躊躇う事無く足を踏み入れた。
ところが足を踏み入れた途端、前方の太い幹の影から強張った顔のビリーが姿を見せて、ジャスティンを見とめると険しい顔で声を掛けてきた。
「ジャスティン、ビアンカが見付からない」
「森の中じゃないのか?」
「ああ。この森に落ちた筈なんだが、落下地点からクリスと左右に分かれて捜したんだが……。クリスから居ないという連絡があったばかりだ」
慌しく告げたビリーの携帯に連絡が入って、恐らく校長からなのであろう、その電話に厳しい顔付きで答えているビリーの声が遥か遠くから霞んで聞こえているジャスティンは、春の煌く日差しの中で透き通った若葉を楽しげに揺らしている森を、黙ったままじっと見つめ返していた。
明るい筈の森の奥は、闇に掻き消されたかの様に黒々とした口を開けてジャスティンを待ち構えていて、その奥底から微かに感じる気配を察知したジャスティンには、ビアンカはまだ森の中に居るという確信があった。
「ビアンカ! ビアンカ、何処だ!」
捜索範囲を広げて周辺を捜すというビリーと別れ、大声で叫びながら纏わり付く下草を物ともせずに森に分け入ったジャスティンは、音が吸収されて響かない森の中で募る焦りで眉間に深く皺を寄せて強張った顔に変わっていた。
広さ凡そ十ヘクタールの此の場所が国立公園に指定されるずっと以前からこの森は手付かずのままで、今は貴重な動植物の保護地域として何の手も入れられず、普段は奥深くまで一般人が立ち入る事の無い場所だったが、時折観察に訪れる研究者達が荒天を避ける為の避難小屋も作られていて、横切るのに歩いて十分も掛からない筈の森は何処まで行っても頭上高く聳え立つ木々に覆われて、行く手を遮られていた。
この時期では落葉樹はまだ頼りなげな小さな若葉を繁らせ始めたばかりで、仰ぎ見る天空には青い空が見えている筈なのに、まるで過ぎ去った秋の葉が影だけ残して天空を覆い尽くしているようで、僅かな隙間から差すか細い光からは春の息吹が感じられなかった。
闇の気配が色濃く立ちこめ始めた森は白く霞む霧も出始め、不穏な空気を感じてジャスティンは立ち止まった。
「風が止んだな」
森に入った時には燦々と降り注ぐ春の陽が差していた筈だったが、日暮れが迫るのと同時に薄日も差さなくなり、急速に下がり始めた外気が吐いた息を白く凍て付かせた。
雨が降り出すのかもしれないとジャスティンが思ったのと同時に小さな雫が銀髪に降りかかり、遠慮がちだった雫は忽ち仲間を大勢引き連れて再び吹き始めた風に木々の梢を打ち鳴らし、吹きつける冷たい雨に為す術無くずぶ濡れになったジャスティンは、悪化する事態に歯噛みをしながらも、鋭い視線を前へ向けてまた歩き始めた。
降り頻る豪雨は一層視界を悪くさせて、目を細めて前方を見やりながら歩き続けていたジャスティンは、悔しさに立ち止まって天を仰いだ。
自分はビアンカの【鍵】の筈であった。彼女を支え、彼女を守り、その為に生を授けられた自分の力の無さに唇が切れる程噛み締めていたジャスティンはそれでも信じたかった。あの花の芳香を含んだ南風が自分の中から消え去る事など、そんな事は絶対に有り得ないと信じたかった。
――森よ、俺に彼女を返してくれ。ビアンカを返してくれ。
蒼の瞳を閉じて、顔を洗い流す冷たい雨に打たれながら、天空を仰いだジャスティンは静かに祈りを捧げた。
足元から蔓草に纏わりつかれている感覚を逆らう事無く受け止めながら、ジャスティンは両手を広げて祈り続けていた。
馥郁たる森の深い緑の力が己の体の奥深くから泉の様に湧き出し、闇夜を照らす月の冴え冴えとした光を感じて、ジャスティンは目を開けた。
闇に覆われた木々は密やかに息づいて、聞こえるものと言えば雨が木々を打ち鳴らす音だけだったが、その闇の中に微かに、ほんの微かに柔らかい光が差しているのを、ジャスティンの蒼の瞳は確実に捉えていた。
もう躊躇う事も無く、ジャスティンは光の方向へと向かって雨に濡れた下草を掻き分けながら走り出していた。
季節外れの春の嵐は彷徨っていたビアンカも容赦なく襲い、全身ずぶ濡れのまま身体を震わせてビアンカは大木の木の根元に蹲っていた。
冷たい雨は彼女から急速に体力を奪い、歯の根が震えてカチカチと音を立てている口唇は血の気が消えて薄紫色に変わりつつあり、大木の根元であっても横から吹き付ける雨に晒されて、重い不安の塊を胸の内に抱えてビアンカは途方に暮れていた。
きっと、兄ロドニーやビリーが自分の事を探してくれているとは信じてはいても、降り止まぬ風雨と陽が落ちて闇に包まれた辺りの様子から、助けは来ても明日の朝になってしまうだろうとビアンカは震える身体を細い両腕で抱き締めた。
しっかりと両腕で抱え込んでも、小刻みに震える身体からは熱が逃げる様に去って行き、強張って動かない口元を微かに動かして、雨に混じって涙が流れ落ちていく顔を上げた。
「……ジャスティン……」
今日はどうしても病院を離れられず、地団駄を踏んで悔しがっていたジャスティンの顔を思い出しながらビアンカは暗闇に瞳を彷徨わせていたが、冷たい耳の奥底に微かな声が響いたような気がして森の奥に目を凝らした。
しかし、じっと待っていても聞こえてくるのは緑の木の葉に叩き付けられる雨音と、濡れた身体から熱を奪う吹き過ぎる風の音だけで、諦めたビアンカはまた顔を俯けて項垂れた。
「――ビアンカ! ビアンカ!」
今度ははっきりと自分の名が呼ばれているのが聞こえて、思わず立ち上がったビアンカは、震える声で叫び返していた。
「ジャスティン!」
目の前の木々の間から、全身ずぶ濡れで銀髪を顔に張り付かせたジャスティンの姿が目に飛び込んで来ると、ビアンカは両腕を精一杯伸ばしてジャスティンの腕の中に駆け込んで行った。




