第十三章 第三話
ビリーに言われている事の意味が分からなくて、いや、分かってはいるのだが受け付けるのを拒否している頭の中でその言葉が繰り返し鳴り響いていて、ジャスティンは「え?」と聞き返しただけで後は黙り込んでいた。
「だから! ビアンカが崖から転落したらしいんだ。お前ビアンカの居所を察知出来るよな? 今現在の居場所を教えてくれ」
小児科医局の大テーブルの脇に立っていたジャスティンは、崩れるようにそのまま椅子に座り込んで呆然としていた。
確かに自分とビアンカは番人と【守護者】という間柄ではあるが、その居場所の察知なんて力はと思い掛けたジャスティンは、ハッと気付いて顔を上げた。
「そうか! GPSか!」
携帯を握り締めた手に力が篭って、緊急事態に切り替わった頭はジャスティンに軍人時代の精悍さを思い出させていた。
ビアンカは自身の位置を示すGPSが埋め込まれた十字架を肌身離さず身につけており、その位置情報はジャスティンの携帯電話で確認出来る仕組みになっていた。
その機器を作動させたジャスティンは、ビアンカの位置を示す赤い点が明滅している地点を、無言のままじっと見つめ返していた。
覚醒したジャスティンにビアンカの居場所の座標を正確に教えられたビリーは、公園管理スタッフが慌てて運んできた樹上作業用の長さ三十mのロープを手にしてその座標地点付近に辿り着いていた。
下草が生い茂っていて分かり難かった崖際を、下草を薙ぎ払って確認したビリーは、崖際に生えていた茨草の一本に細い鎖の切れた十字架が絡まっているのを見付けて険しい顔で手に取った。
「ビリー、俺が行く。俺がビアンカを」
ビリーの傍らで崖下を覗き込んでいたロドニーが真剣な顔で振り返ったが、ビリーはすっくと立ち上がると首を振った。
「この高さでは危険過ぎる。まだお前には降下訓練は教えていない」
AAS時代に学んだ基礎知識をロドニーに教授しているビリーではあったが、この高さの降下をまだロドニーにさせる訳には行かなかった。
「でも!」
「まだ君には無理だよ、ロドニー。もしも万が一君も此処から転落する事になったら君は無事では済まない。きっとビアンカは自分の力を使って無事に下に降りてる筈だから、僕らに任せて」
ロドニーの肩を叩いて宥めた元【守護者】クリス・エバンスは、以前特殊部隊の訓練を受けていた事があり、無言で頷いたビリーにクリスも口元に笑みを浮かべて頷き返した。
それでも納得出来ないロドニーは唇を噛んで悔しがっていたが、ビリーは冷静にロドニーを諭した。
「いいか。基本となる手順を確実に覚えろ。まず、崖上でのロープの固定には、しっかりと根の張った大木を選ぶ。そして結び方もだ。途中でロープが解けない様に――」
手際よく前準備を進めていくビリーの背中を、ロドニーは真剣な眼差しで瞬きせずに見つめていた。
「そうか……」
ビリーからの報告は、十字架の見付かった地点から崖下へと降下してビアンカを探したが姿が見付からず痕跡もなかったというもので、力の抜けた身体を椅子に押し込んで、ジャスティンは強張った顔で電話を切った。
「……行かなくていいの?」
医局の中を覗き込み心配そうな声色で声を掛けてきた病棟看護師カレン・ホッグスの言葉にも何も返さず、ジャスティンは唇を噛み締めたまま黙り込んでいた。
勿論直ぐにでも駆けつけてビアンカを助けに行きたいのは言うまでも無かったが、今日は自分とアンガスだけしか病院内におらず、アンガス一人だけにして抜け出すというのが何を意味しているのか、分かっているジャスティンは口に出す事が出来なかった。
「おい、エイドリアン先生。今日の午後の外来は明日午前に回せ。予定されている手術はこのまま行う。サポートに回れ」
自分の背後から居る筈の無い医局長ヒックス・ストライドの声がして、ジャスティンは思わず立ち上がって振り返った。
「というわけだ。とっとと行って来い」
「医局長……今日は休日じゃ」
「寝てたら叩き起こされた。遠慮の無いデカイ声でな」
クスクスと笑っているアンガスを睨んでヒックスは不機嫌を露な顔付きであったが、またジャスティンに真顔を向けた。
「状況に依っては緊急処置が必要な筈だ。準備を怠り無くしとけよ」
「……イ、了解しました!」
大声で叫んだジャスティンは、さり気無く道を開けた二人の間を通り抜け、強張った顔で病棟の廊下を駆け抜けて行った。
力を加減して木の葉が舞い落ちる様に崖下へと落ちたビアンカは、怪我をする事も無く柔らかい下草に受け止められて無事であったが、見上げる崖上は遥か頭上で、とても自分には登り切れるとは思えなかった。
崖下から上空を仰ぎ見て、キャンプ場のある方角、南を確認したビアンカは、獣道すら無い腰の高さまで生い茂る草々を掻き分けてゆっくりと歩き始めた。
幾ら広い森とは言っても国立公園内のほんの一部で、うっそうと木々は繁ってはいても微かに木漏れ日の漏れる森の中も視界が悪いとまでは言えない筈だったが、時折鋭い草に足を切られ滲んだ血に顔を顰めながら歩き続けていたビアンカは、それまで微かに吹いていた風の音が止んで、囀る小鳥達すら居ない森の中の静寂が両肩に重く圧し掛かって不安げな顔を上げた。
上から見下ろした時には、広いとは言え森の切れた先には草原が続き草を食んでいるのであろう羊達が白い小粒の小石の様に見えていた筈なのに、もう三十分以上は歩いているのに光の差さない森の先は黒く霞んで、言い知れない黒い不安に押し潰されそうになったビアンカは、自らの力で囚われの森から脱出しようと試みた。
だが、先程目映いばかりに自分の内に感じた白い光は目を閉じても感じられず、以前は容易く張れた結界も今はその力を失っているのかビアンカに清涼な空気を齎してはくれなかった。
静寂の中で不気味に揺れる空気が、無駄な抵抗を試みている彼女を嘲笑っているかの様に、ビアンカの頬を冷たい手で撫でた。
先程までは木々の梢に揺れていた木漏れ日も色を塗り替えたかのように消え失せ、足元を流れる森の冷たい空気に少し身を竦ませたビアンカは、周囲の何処を見回しても、黒々とした太い幹を晒している木々がまるで同じ様に見えて、自分がどの方向から歩いて来たのか、そしてどの方向へと向かっているのか、混乱する頭を抱えて恐怖が突き上げてその場に蹲ってしまった。
「助けて……助けて、ジャスティン」
幾ら呼んでも今では例え【守護者】と言えども番人と意思疎通が図れるわけでは無く、届かない言葉は木々のゴツゴツとした分厚い表皮に吸い込まれて虚しく消えて行った。




