第十一章 第六話
春を迎えた北海は少し波は荒いものの、白い波頭が穏やかな春の日差しを返して濃紺色の海に映え、ずっと見ていても見飽きないと故郷の海をジャスティンは静かに眺めていた。
ディー川の河口にあるウォーカーパークは空に聳え立つ白い灯台のある芝生公園で、嘗てアバディーンで奇跡の様にオーロラを見た場所だった。
散策のついでに此処まで足を伸ばしたジャスティンは、当時の事を思い出しているのか岬の先端の芝生にちょこんと腰を下ろして、上機嫌で海を眺めているビアンカを見下ろした。
今日は皆祭りに出掛けているのか辺りに人影は無く、海から吹く潮風に金髪を靡かせているビアンカは笑顔でクルリとジャスティンを振り返って立ち上がった。
「昼間もとても綺麗な場所ね」
「ああ。まぁ、何も無いけどな」
水平線の彼方に大きな船がゆっくりと北へ向かって航行しているのが見え、タンカーらしいその船は操業を再開した北海油田の物か、それとも最近交易が盛んになったというロシアからの物かと、眩しい日差しに手を翳してジャスティンは復興の兆しを感慨深げに眺めていたが、ジャスティンの隣にピタリと寄り添い、翳していた右手を奪い取って自分の腕に絡めたビアンカは、ジャスティンを見上げて嬉しそうに笑った。
「何も無くてもいいの。こうして貴方が一緒に居てくれるだけで」
穏やかに微笑むビアンカを見下ろして、自分の葛藤を察しているのだろうビアンカの大人びた瞳にジャスティンは目を奪われた。
屈み込まないとビアンカの唇を奪えないのは、彼女がまだ子供の領域を出ていない事の表れでもあったが、まだ冷たさが残る潮風に吹かれながらほんのりと温かいビアンカの唇に何度も口付けている内に、その仄かな温かさが身体中に満ちてきて、身体の奥底にある熱情の塊が泉が湧き出すように噴き上げてくる感覚にジャスティンは翻弄された。
何時もの親愛の情のキスから、次第に熱を帯びて熱くなる口付けを止められず、ビアンカの細い身体を抱き締めて突き上げる熱情のままにキスを繰り返すジャスティンにもビアンカは抵抗せず、寧ろ紅潮した頬と時折漏れる小さな吐息が一層ジャスティンを刺激して、恋人同士が交わす熱愛のキスに二人は酔い痴れていた。
――まるでトルトラ島に居るみたいだ。
噴き上げる熱を纏った身体は、あの南国の島に居る時の様に熱く燃え滾り、自分の身体の隅々まで満ちてくる花の豊満な香りは甘く狂おしく漂って凍て付く風を遠ざけた。
自分の奥底にあるこの北の海と、ビアンカが持つ南の海とがぶつかり合って渦を巻き互いに混ざり合いながら豊かな海を形成していく感覚の中で、ジャスティンは翻弄される身体を寧ろ心地良いと感じていた。
それでもジャスティンの太い首に回された細い腕の感触が彼女がまだ準備が全て整ったわけでは無い事を示していて、熱情の渦の中にあっても僅かにジャスティンを理性が制していた。
ようやく顔を離した二人は、互いの顔を黙ったまま見合わせて、熱情の余韻に浸るように身体を寄せ合って、そよ吹く風の中ずっと抱き合って静かに笑っていた。
「ジャスティン、キスだけでよかったの?」
帰り道に唐突に呟いたビアンカの台詞にブッと吹き出して、顔を真っ赤にしてしどろもどろになったジャスティンは慌てて車を止め剥れた顔で助手席のビアンカを振り返った。
「な、何馬鹿な事言ってんだよ」
「でも、今日のジャスティンは珍しく積極的だったし」
此方も頬をボッと赤くしたビアンカから視線を外し宙に泳がせて、ジャスティンは一層赤くなった顔を誤魔化そうと必死だった。
「お前な。お前はまだ十三歳なんだぞ。本当ならキスだけでも犯罪なんだぞ」
「へぇ、そうなんだ」
納得したのかしてないのかビアンカは不満そうに口を尖らせたが、その小さな唇をもう一度奪いたい衝動に駆られて、ジャスティンは暑くも無いのに顔を手扇で煽ってフゥとため息をついた。
「あと三年待ってろ。そしたら幾らでも抱いてやる」
「本当? じゃあ約束」
何の約束だよとジャスティンは呆れたが、上機嫌で身を乗り出し顔を近づけたビアンカにまたドキッとして身構えたジャスティンの目の前に小さな手が差し出されて、「はい、約束」と小指を立ててニコニコ笑っているビアンカの屈託無い笑顔に絆されて、こういう所がまだ子供なんだよなとジャスティンは苦笑いになった。
夕方家に戻った時には、急患の波はもう落ち着いているようで、診察室ではノートを片手にノーマンにぴったりと張り付いて一言も聞き漏らすまいと真剣な顔付きのアンガスが、背の高いノーマンに合わせようと両足を震わせながら背伸びをしていて、立ち上がってご主人様に縋り付いている仔犬よろしく、やっぱりブンブン千切れんばかりに振っている尻尾が丸見えだった。
一方のカレンの姿は病院内には見えず、何処へ行ったんだと怪訝に思いながらジャスティンが自宅へと通じる扉を開けると、途端に芳しい香りが立ち込めて思わずジャスティンは鼻をヒクヒクさせた。
「お帰りなさい、早かったのね」
台所に立って今日の夕餉を作っていたのは母オリヴィアでは無く、そのカレンだった。
「お前、何やってんだよ」
「見りゃ分かるでしょ。晩御飯作ってんのよ」
「なんでお前が。お袋は?」
「オリヴィア先生は分娩室よ。早期破水の患者さんが急患で運ばれてきたの」
「ああ」
確かに、調理中だろうと食事中であろうと急患が運ばれてきたら直ぐに病院へと向かう母親の事だから、こうして代わりに調理してくれる人間がいるのなら少しは安堵してるだろうとジャスティンは納得して頭をボリボリと掻いた。
「で、人間が食べられる物を作ってくれんだろうな?」
ジャスティンの余計な一言でカレンの形相が鬼の様に変わった。
「えっと、済みませんでした。Ms.カレン・ホッグス」
ジャスティンが丁寧に詫びては見ても、自分の目の前には冷たい牛乳を注いだだけのオートミールの皿が置かれているだけで、中に詰め物をして焼いたらしい香ばしいチキンステーキや、緑色や赤色、黄色のコントラストも美しいミモザサラダや、黄金色に輝く澄んだコンソメスープ等が並ぶ他の人の夕餉の皿を恨めしそうに見渡して、ジャスティンはすっかり意気消沈してオートミールの皿をスプーンで切なそうにかき回してカレンを上目遣いで見上げた。
「貴方がいけないのよ、ジャスティン。失礼な事を言うから」
横目で睨んだビアンカにも説教されて、確かに言い過ぎたと反省しきりのジャスティンは、「はい……」と力無く返事を返した。
「ホッグス嬢は看護師としても優秀であるが、料理人としても大成するんじゃないか」
そんなジャスティンには目も暮れず、淡々と口に運ぶノーマンがカレンを見て穏やかに笑うと、カレンは照れて顔を赤くした。
「そんな事は」
「カレンは料理がとっても上手なんです。栄養士の資格も取りたいって勉強してて」
幸せそうな顔で蕩ける笑顔でモリモリと食べているアンガスは、チキンに添えられている大盛りのマッシュポテトを早速お代わりして、微笑んで席を立ったカレンの後ろ姿を嬉しそうに眺めていた。
「よくそんな事まで知ってるな」
仕方なくオートミールを食べ始めたジャスティンが面白くなさそうな顔で突っ込むと、アンガスは頬をボッと赤くした。
「えっと、それは」
ところがそこで無粋なチャイムが鳴り響き、顔色を変える事無く冷静に席を立ったノーマンが病院へと向かって、きっとまた急患で問答無用で拉致されるんだとジャスティンは顔を引く付かせた。
「急患だ。五歳男児。下肢骨折の疑いがある」
やっぱりかと項垂れたジャスティンに代わってもう既に医師の顔に変わっていたアンガスが素早く立ち上がり「はい!」と元気良く返事を返したのを見て、ジャスティンも医師の顔を取り戻して立ち上がった。
「骨折なら外科の範疇だ。お前苦手だろ。俺が行く」
「でも」
戸惑うアンガスを制してジャスティンが向い掛けたが、ノーマンは一度チラリとジャスティンを見てからアンガスに向き直った。
「エイドリアン先生、受け入れ準備を」
「は、はい!」
「何でだよ!」
冷たい父の仕打ちに、これまで堪えていたジャスティンの怒りが爆発した。
「何で俺じゃダメなんだよ! 何で」
「お前は飯を食ってろ。俺の残りを食べていいから」
ノーマンは少し眉を顰めただけでそう言い残してさっさと病院へと戻り、困惑した表情でノーマンとジャスティンを振り返っていたアンガスも後へと続いた後、戸惑いが漂う空気の中でジャスティンは怒りに任せてナプキンを床へと叩き付けた。




