第十一章 第五話
エディンバラへ行く前にどうしてもジャスティンが向かいたいと強く主張して訪れたグラスゴーは、陽は傾き掛けて紅色に染まった街並に宵闇を遠ざける明かりが灯り始めている中、花束を手にしたジャスティンはサイレントヒル墓地の一角に潅木に守られるようにして建つ二つの墓石の前で唇を噛み締めて佇んでいた。
妻メアリーの墓石と並んで、まだ新しい灰色の墓石にはロシアでの戦闘の最中に殉職したニコラス・ティペットの名が刻まれていて、『世界を救いし勇猛果敢なるハイランダー此処に眠る』と書かれた墓碑を指でなぞって、ジャスティンはこみ上げる嗚咽を堪えようと噛み締めた奥歯に力を入れて必死に嗚咽を飲み込んだ。
墓地の管理事務所で、先達て遠いロシアからの訪問者が居たのだと聞いてジャスティンは目を閉じて微笑んで頷いた。
「赤ちゃん連れの夫婦だったんだが、男性は左足が少し悪いようで引き摺ってたな。長い時間墓石の前で動かなくてね。ずっと泣いていたようだった」
きっと彼がニコラスが助けたというロシア兵なのだろうと察したジャスティンは、繋いだ『絆』が異国の地でも紛れも無く受け継がれている事に感謝して天を仰いだ。
「でも大丈夫よ、ジャスティン」
黙ったまま付き添っていたビアンカが潤んだ瞳でジャスティンを見上げて、口元には笑みを浮かべた。
同じ髪色と瞳の色を持ちマリアに良く似た丸い瞳のあのニコラスが、きっとまたメアリーと出会うのだろうと、ジャスティンは暮れゆくグラスゴーの薄闇の空に向かって穏やかに笑った。
「三歳児男子、熱発だ。バイタルチェック頼む」
すかさず「はい!」と返事をしたのはアンガスで、診察室の片隅に置いてあるベッドまでぐずり泣きをしている男の子を抱え上げて、ニコニコと笑いながら男の子の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃんにお口の中を見せてくれるかな? あーんして」
アンガスの優しい表情に釣られて大きく口を開けた男の子の喉の奥を、ペンライトで照らして真剣な顔で覗き込んでいるアンガスを見下ろしながらジャスティンは内心でため息をついた。
「ウォレス先生!」
「何だ」
「何だよ、カレン」
看護師の制服を着込んで診察室を覗き込んだカレンにノーマンとジャスティンが一斉に返事をしたので、カレンはブッと思わず吹き出した。
「ごめんなさい、紛らわしいですよね」
「コイツの事は呼び捨てで構わないぞ」
やっぱり一々自分には優しくない父親の言動に怒りがこみ上げてくるのを押さえようと、ジャスティンは剥れ顔ながらも口は結んで一言も返さずに大きく肩で何度も息をついた。
「というか、二人が居ればお前はいらないな。ビアンカ嬢が一人で退屈してるだろう。何処かへ遊びに連れていってやれ」
ニコリともしないノーマンは振り向きざまにジャスティンに淡々と声を掛けた。
「ちょ、俺も研修があるんだけど?」
「国立中央病院からの研修要請はアンガス・エイドリアン氏のみと聞いている。お前は要請には入って無かった。それでホッグス嬢、用件は?」
「急患要請です。二歳女児、腹痛を訴えているそうです」
一人置いてきぼりのジャスティンに同情の篭った横目を寄越したカレンだったが、此方もさっさと業務の顔に戻ってしまって、眉を寄せた険しい顔になった。
「エイドリアン先生、受け入れ準備頼む」
「はい!」
まるで戦場の様相を呈してきた診察室を憮然と出たジャスティンは、今日も今日とて満員御礼の待合室を横目に、不機嫌そうに大股で歩いて行った。
市内東部に位置するキャッスルゲートは嘗ては城砦があった古くから栄えた場所でアバディーンで行われるお祭りの中心地であり、現在はイースターのお祭りの真っ最中でスコーンなどの軽食を売る屋台が所狭しと並び、レモネード売りの威勢のいい掛け声が飛び交う中、休暇を楽しんで漫ろ歩く大人達の間を縫う様に小さな子供達が駆け回って、冬が長く厳しいアバディーンに春を告げるこの祭を誰もが心から待ち望んでいた様子が窺えた。
賑やかな人込みを並んで歩いているジャスティンとビアンカも、祭の高揚感を味わいながら散策をしていたが、ジャスティンはまだ不機嫌そうであった。
「きっとお父様は気を使って下さったのよ」
「んな筈はない。絶対に有り得ない!」
ビアンカが気を使ってジャスティンを宥めてはいるものの、機嫌を損ねたジャスティンに呆れてフゥとため息をついた。
アンガスに対抗心を燃やしているジャスティンにとって、今回の父親の仕打ちは傷に塩を塗り込む様なもので気分を高揚させるのは難しかったが、それでも折角ビアンカをお祭りに連れてきたからにはそんな事も言ってはいられないと、血が上った頭を冷静に切り替えてブルブルと振って辺りを見回した。
イースター祭に来たからにはビアンカにどうしても食べさせたいお菓子がジャスティンにはあったが、目当ての屋台が見当たらずに困惑してキョロキョロ見回しているジャスティンの目の前に色とりどりの風船を空中にフワフワ浮かせている風船売りが道化師の衣装で唐突に現れて立ち、隣に居るビアンカに「はい」とその中の一つを手渡した。
「ありがとう」
「え、えっと」
笑顔で受け取ったビアンカと、値段の分からないその風船は一体幾らなのかという事が真っ先に頭に浮かんで引き攣った顔になったジャスティンとをニコニコと見て、風船売りはにこやかに笑った。
「今日はお祭りですから子供達に無料で配ってるんですよ」
「あ。いえ、ありがとうございます」
無料と聞いてホッと胸を撫で下ろしたジャスティンの怪しい言動に気付いているのかいないのか、ビアンカは綺麗なピンク色の風船を手にして嬉しそうに笑っていた。
「絵本では見たけど、風船って初めてなの」
屈託無く笑っているビアンカを見下ろして、ジャスティンは寂しそうに微笑んだ。
崩壊した英領ヴァージン諸島で生まれ五歳まではろくに食べる物も無い過酷な生活を過ごし、保護されて英国に来てからも少子化と世界崩壊の煽りを受けて物が少ない日々を過ごしてきたビアンカには、ジャスティンが子供の頃当たり前の様に手に入れてきた物でも見た事の無い物がまだ沢山あった。
ジャスティンがビアンカにどうしても食べさせたいと思ったイースターエッグもその一つで、卵形をしたチョコレートの中に小さなおもちゃが仕込んであるこのお菓子はイースターを迎えた子供達にとっては定番中の定番だった。
本物のゆで卵を使ったエッグ売りの屋台なら幾らでもあるのだが、以前は沢山あったお菓子のエッグ売りの屋台は一つも無く、先程通りに面した商店のショーウィンドウで煌びやかに飾られて鎮座しているエッグを見つけたのは見つけたのだが、絶対中に入ってるのは宝石だろうとしか思えないその売値にどう転んでも太刀打ち出来ず、ビアンカには見せないようにそっと傍を離れたのだった。
主にアフリカ地域などで作られていたチョコレートの原料となるカカオ豆は今では入手困難な貴重品となっていて、英国での生活も長くなってきたビアンカは今でも一度も口にした事は無かった。
だからこそ食べさせたいと願ったジャスティンだったが、今も尚疲弊しているアフリカ地域との交易は再開しておらず、叶わぬ夢であった。
頭上にフワフワと浮いている風船に繋がれた紐をしっかりと握り締め、青空に帰りたそうに揺れている風船を何時までも見上げ頬を染めて笑っているビアンカの嬉しそうな横顔を見下ろして、枚挙に暇が無い未だ見ぬ品々をビアンカに与える事の出来無い自分の無力を感じて、ジャスティンは胸の痛みに目を細めた。




