第一章 第八話
ビアンカは昨日迄とは打って変わった穏やかな気持ちで、秋風の吹く校庭をゆっくり歩いていた。放課後も校庭で遊んでいる子供達の多くはこの聖システィーナ近郊に住む子達で、農作業や牧畜など両親が共に働いている子が多く、少しの間此処で過ごしてから家に帰る子が多かった。どの子も、まだ赤ちゃんの頃から見知った子達ばかりだった。
元気に駆け回っている一人の男の子を見たビアンカは、確かあの子はハイハイしすぎて、部屋の壁にぶつかっておでこに怪我をしたんだったわと思い出して、小さくクスッと笑った。元気に縄跳びをしている女の子は、産まれて直ぐに股関節に疾患がある事が判って、歩けなくなるかもしれないと若い夫婦が泣いていた事を思い出して、ビアンカは白い歯を溢して笑っている女の子を見て目を細めた。
――みんなを愛するって、そういう事よね?
ビアンカは満ち足りた心で、遥か上空に羊雲の流れる高い秋空を見上げた。
ジャスティンが心変わりしたのかもしれないという不安が消えたわけではなかったが、それでもビアンカは、ジャスティンが諭したやるべき事とやるべき道を見失うことなく、また一歩を踏み出そうとしていた。
常に年齢以上の分別を要求されることは、この先の自分にとって決して楽なことではないだろうとも思えたが、それでも、こうして元気に遊んでいる子供達の中で彼らに愛情を感じ、そして嬉しそうにビアンカに纏わりついてくる子供達を受け入れる事は、ビアンカにとって苦痛ではなかった。
――私も世界を守っていくんだ。優しい世界を。
お腹が空いても何も食べる物が無かった自分の幼児期を思い出して、薔薇色の頬を輝かせている子供達が、決してそんなことにならないようにとビアンカは願った。
「ビアンカお姉ちゃん! 見てて!」
ジャングルジムの頂上から此方に向かって手を振っているのは、シドの農園を手伝っている若夫婦の見知った男の子で、やんちゃな彼は無茶をしてはいつも先生に怒られていたが、屈託の無い笑顔が兄ロドニーに似ていた。
「フィル、危ないわよ」
ジャングルジムの上で立ち上がり得意そうに笑っている男の子に、ビアンカは眉を顰めてその真下まで来て、少し怖い顔で見上げた。
「下りてきなさい。先生に怒られるわよ」
兄ロドニーの無茶は、無茶する為のものではなく生きる為だった。まだ無邪気なこの子には、侵さなければいけない危険とそうではない危険の区別はついていないんだわ、とビアンカがやれやれと首を振った瞬間、不満げながら言いつけ通り下りようとしていた男の子が足を滑らせて、後ろ向きにジャングルジムの天辺からゆっくりと落ちてきた。
「フィル!」
思わず駆け出したビアンカは慌てていた。自分の能力を発揮する事を忘れて、小さな体で落ちてきた男の子を受け止めたビアンカは、受け止めきれずにそのまま背後の草むらに押し倒されて地面に頭を打ち付け、わき腹に感じる激痛に顔を顰めて目を見開いたが、蒼く広がる空は霞を纏ったように白く変わり始めていた。
――ジャスティン……
生暖かい何かが自分の体からドクドクと流れ出るのを感じながら、ビアンカは愛しい人の名を呼ぼうとしたが、その声は風に消されて消えていった。
サイレンをけたたましく鳴らした病院の救急移送車が到着するや否や、真っ先に飛び出したのはジャスティンだった。
「早く中へ、バイタルは……」
医師の顔で言い掛けたジャスティンだったが、ストレッチャーの上で包まれたシーツに赤く染み出た血に塗れて、真っ青な顔で固く瞳を閉じているビアンカの顔を見て、足が止まって凍り付いた。
「何してんの! 早く中へ!」
看護師のカレンに背中を強く叩かれて我に返ったジャスティンは、強張った顔で唇を噛み締めていた。
――何があったんだ。ビアンカ!
浅く早い呼吸を繰り返しているビアンカを乗せたストレッチャーは、ガラガラと車輪の音を響かせてER室へ吸い込まれていった。
緊急手術にはジャスティンは立ち会えなかった。いや、立会いを許されなかった。
蒼白な顔で立ち尽くすジャスティンはキビキビと動き回る医師や看護師達の中で何時もの手際の良さも消え、足早に通り過ぎる彼らに邪険に押し退けられるだけで、自分が何をしたらいいのか、何をすればいいのか見失っていた。
「お前、邪魔だ。外に出てろ」
ついにヒックスに冷たくあしらわれて追い出され、ER室の外の廊下で長椅子に呆然と座り込んだジャスティンは青褪めた顔を上げる事も出来なかった。
――俺の所為か。俺の所為なんだな。
固く握り締めた両拳は白く変わり、ジャスティンの悔いの深さを表していた。
「おい、ヘタレ」
暫くしてER室から出て来たヒックスの白衣には血が点々と付着し、首元を緩めたヒックスはフゥと息をしてから、ゆっくりと顔を上げたジャスティンに向かって言った。
「あれは事故だそうだ。遊具から転落した子供を助けようと彼女が受け止めた。だが、運悪く彼女が転倒した場所に長さ五cmほどの切り取ったばかりの細い木の幹が残ってたらしくてな。それが腹部に刺さったらしい。幸い傷は臓器には達してなかった」
ヒックスの淡々とした説明を聞いて力の抜けたジャスティンは、そのまま頭を項垂れて、長いため息をついた。
自分がビアンカを邪険にした所為で、今度は本当にわざと自分で傷を負ったのではないかと案じていたジャスティンは、それが邪推であった事に安堵したが、ヒックスはまだ険しい顔を崩さず緩みかけたジャスティンに喝を入れた。
「何安心してんだ。出血が酷い。輸血しないと死ぬぞ」
「了解しました!」
踵を返してER室へと戻っていくヒックスの背を追い舞い戻ったジャスティンは、まだ手術中のランプの灯る手術室を振り返ってから、ヒックスに少し生気の戻った顔を向けた。
「彼女の血液型はAB、Rh+です」
「で、該当の供血者はいるのか?」
そう問い掛けながらも、ヒックスの顔は渋いままであった。
それもその筈で、本来は適切に処理された輸血製剤を使うべきであったが、今はまだ輸血用製剤の生産は再開されておらず、緊急に輸血な必要な場合、枕元輸血と呼ばれる、その場で供血者が輸血を行う手段しか取り得なかった。
感染のリスクが高まる枕元輸血は極力避けるべきであり、救命の最終手段である上に、血液型の中でも一番少ないAB型ときては、十分な輸血が行えるのか情勢は不透明であった。
「院内には……」
言い掛けたジャスティンの背後に誰かが弾丸のようにぶつかってきて、その勢いに押されたジャスティンが思わずよろけながら振り返ると、青褪めた顔のロドニーがジャスティンの胸倉を掴み挙げて泣き出しそうな顔で叫んだ。
「ビアンカは! ビアンカは!」
「ジャスティン!」
恐らく通報を受けて学校から駆けつけたのであろう、ロドニーとエドナの悲痛な顔を見て、ジャスティンは何も答えることが出来ず強張らせた顔で眉を寄せた。