第十一章 第三話
昨日までと世界は何も変わっていない筈なのに、木々を渡る風も甘く香る春の花の香りも何処かその色を変えたように感じられて、そぞろ歩くビアンカはふと立ち止まって振り返った。
静かに聳え立つ大講堂の向こうには北の森が春の風にざわめいていて、風に乗って聞こえてくるざわめきも祝福の鐘の様に聞こえてビアンカは恥ずかしそうにフッと笑った。
まだハイヒールは似合わなさそうな細い足も、手で触れてみても微かな膨らみしか感じない小さな胸も、空が高く感じる小柄な背も、まだ自分が大人になった感覚は沸かないビアンカであったが、それでも今日起こった事は紛れも無く自分が大人の階段を一段上がった証であった。
他人よりは遅い歩みではあったが、蛹の殻を脱ぎ捨てて輝く羽を得た自分がジャスティンの胸に飛び込んで行く日を思い浮かべて、ビアンカは胸が締め付けられる様な感覚に小さく身体を震わせた。
「……何で離れて歩くんだよ」
その日の午後、当直明けでW校に顔を見せたジャスティンは少し眠そうで時折欠伸をしながらビアンカと並んで校内を歩いていたが、近寄ろうとすると頬を赤らめて少し離れるビアンカを不機嫌に眉を寄せて見下ろした。
「別に、何でもないの」
男性はそうそう気付かないとは言われたけど、何と無く何時もと違う自分に戸惑ってジャスティンと一歩距離を置きたくなる複雑な心境を抱えて、ビアンカは恥ずかしそうに小声で答えた。
「……もしかして、俺汗臭いか?」
明け方に原因不明の熱発の子供が担ぎ込まれ、シャワーを浴びる時間も無かったジャスティンは顔を顰めてクンクンと自分の匂いを嗅いだが、ビアンカはフルフルと首を振った。
「じゃあ、何だよ」
立ち止まって屈み込んでビアンカの顔を覗き込むジャスティンの表情は不安げで、また胸が締め付けられる様な感覚に襲われたビアンカは、抑えようとしても身体の中からこみ上げてくる熱風が頬を赤く染めるのを感じていた。
「どうした? 熱でもあるのか?」
右手を伸ばしビアンカの額に手を当てたジャスティンの掌の大きさと温かさが、その熱情を包み込んでくれているような心地よさにビアンカは自然に目を閉じていた。
「微熱がありそうだな。散歩してる場合じゃない。ビアンカ寝てろ」
恋人を想う表情から医師の顔に変わったジャスティンの凛々しい顔を見上げ首を振ろうと思ったビアンカだったが、思い直して素直に「うん」と頷いた。
とは言え、寄宿舎の中ではジャスティンは子供達の私室にまでは入れないので「此処でいい」と言って談話室のソファーに足を投げ出して座り込んだビアンカは、ビリーの妻テレサが心配そうな顔で運んできた毛布を掛けて貰い、傍らに座り込んでいるジャスティンを見上げてニコッと笑った。
「大した事ないから大丈夫よ」
「無理すんな。今は軽度の体調不良でもそれが引き金になって大病を招く事もあるんだからな」
ポンポンと優しく頭を撫でるジャスティンは真顔で、さり気無い仕草でビアンカの脈拍を測っている様子を見て、もうすっかり立派なお医者様になったわねと内心で思いながら、ビアンカは心地良さに引き込まれる様に目を閉じていた。
やはり普段と違う自分に緊張感から来る疲れを感じていたのか、ビアンカは少しうとうととしていたようで、ハッと目を覚ました時にはもうそろそろ夕餉の時間になろうとしていた。
「ジャスティンは?」
直ぐ隣に居た筈のジャスティンの姿は無く、毛布を跳ね除けて起き上がったビアンカは不安げに辺りを見回した。
「ああ。さっき帰ったぞ。明日も診察があるらしいから」
「そんな……」
見送りもせず一人で帰してしまった事にビアンカがしょげ返っていると、もう夕食を待ち切れなくてダイニングをウロウロしているロドニーがフンと鼻を鳴らしてビアンカを見下ろした。
「ビアンカが心配だから、明日も夕方に来るって言ってたぞ」
「本当? お兄ちゃん」
「ああ」
本当はロドニーにとっては教えたくない情報なんだろうが、妹が喜ぶ顔が見られるのならしょうがないと思っているようで、無愛想ながらもロドニーは頷いた。
「そうよ。だから体調が良さそうならご飯にしましょ」
大きな皿に乗った山盛りのミモザサラダをテーブルの中央に置き、テレサは溌剌とした笑顔でビアンカを手招きした。
夕食を終えた談話室で、子供達は其々が好きな場所で好きな様に寛いでいて、妊娠六ヶ月目を迎えお腹が目立つ様になったエドナはゆったりしたスモック風のワンピース姿で赤ちゃん用の小さな服に小さな赤い花の刺繍をしながら穏やかに微笑んでいた。
テレサとビリーの愛娘メアリー=アンのお下がりを貰ったエドナは産まれて来る我が子用にと島の花ブーゲンビリアの刺繍を施していて、器用に針を運ぶエドナの隣にちょこんと座って、ビアンカはエドナの顔を覗き込んだ。
「エドナお姉ちゃん、お姉ちゃんはどんな感じだった?」
「ん?」
ほんの微かなヒソヒソ声で、耳を澄まさないと聞こえないような声で問い掛けてきたビアンカの、口をヘの字にした不安そうな顔をエドナは振り返った。
「そうね。私の時は直ぐに修道尼が付き添ってくれたから特に何も心配はしなかったわ。それに、その時にはまだ恋人も居なかったし。でもね、ビアンカ。大人になるっていうのは、それ程悪いものでも無いわよ」
エドナは柔らかい笑顔で微笑んだ。
もう直ぐ母となる、否、母となったエドナの表情は一層穏やかで、島で何時も自分に添い寝してくれていた当時のあの笑顔そのままで、自分にも何時かそんな時間が訪れるのだと知ったビアンカは、また胸が締め付けられる様な感覚に小さな胸に両手を当てたが、それは決して不快な感覚では無く、寧ろ身体の奥からじわじわと暖められた卵が今孵ろうとしているのだと、自分に訪れた変化を素直に受け止められる気がして、エドナの顔を見上げて「うん」と嬉しそうに微笑んだ。




