第十一章 第一話
今日も足取りも軽く山の様なカルテを抱えて歩くジャスティンは、窓辺から降り注ぐ四月の春の日差しを浴びて気持ち良さそうに一回背筋をグッと伸ばした。
「ウォレス先生、オーツ先生がカルテはまだかって」
「おう!」
ジャスティンの姿を見止めた病棟看護師カレン・ホッグスはそう言うと小児科医局を顎で指して、十冊近いカルテをジャスティンが抱えているのに気付くと文句を言いたそうな顔だったが医局の扉を開けてやって「ほら」とフンと鼻で息をした。
「サンキュ」
下っ端扱いには慣れているジャスティンが明るく返してきたので、カレンは首を竦めてクスッと笑った。
無事に双子を出産したマリアは二週間ほどの入院で赤ちゃん達と共に退院して行き、投薬の経過が順調なウィリアムも先週一時退院したばかりであった。
ライアン医師を失った小児科はその悲しみを乗り越えて皆日々の業務に勤しんでいたが、その小児科には新しい医師が二名着任していて、ゆとりの生まれた今ではジャスティンも走らずにゆっくりと歩いて来る余裕すらあったというわけだった。
新任の医師達はどうやら医局長ヒックス・ストライド医師の昔の知己らしく、以前の少子化の煽りを受けて医院を閉鎖せざるを得ず職を失った仲間を伝手を頼って探したヒックスがスカウトしてきた正真正銘の医師で、研修生の自分から見れば皆大先輩であった。
「ああ、ご苦労様。ウォレス先生」
山の様なカルテを抱えて戻ってきたジャスティンを出迎えたのはその二名の医師達と医局長ヒックスで、何時もなら「遅ぇよ!」という怒鳴り声で出迎えられるのに慣れているジャスティンは、豹変したヒックスを上目遣いで見て「いえ」と口篭った。
これ迄は医療スタッフ、患者どちらから見ても『どうしてこの男が小児科医なんだ』とほぼ全員に思わせるボサボサの髪に無精髭、むっつりとした無愛想顔のヒックスは、確かに顔付きは以前と同じ不機嫌顔ではあったが髪はこざっぱりと短くなっていて、看護師達の小言にもめげず生やしっ放しだった無精髭も綺麗さっぱりと剃られていて、最初にそのヒックスに出くわした時にはジャスティンは余りの変貌ぶりに思わず「どちら様で?」と声を掛けてヒックスに思いっきり頭を叩かれていた。
ヒックスをこれほどまでに変えたのは亡くなったライアン医師の一言で、断続的に激痛の続くライアン医師に担当医達が険しい顔を付き合せてミダゾラムを投与すべきか議論している最中に、ひょいひょいとヒックスを手招きして耐え難い疼痛に襲われているであろうに笑顔でこう言ったのだった。
「そうそう、ストライド先生が人攫いに見えて怖いってちっちゃい女の子が言っててねぇ」
その一言で険しい顔付きだった背後の医師達が一斉にブッと吹き出して、言われたヒックスはどう返していいのかその無精髭が疎らに生えた頬をヒクヒクとさせていて「はぁ、いえ、済みません」と返すしか無く、確かに身嗜みを整えた後は病棟の子供達に「先生、人攫いやめたの?」と率直に声を掛けられて、益々頬をひく付かせたヒックスは「ああ」と苦笑いするしか無かったのであった。
ジャスティンに縋り付いて大泣きした日以降、アンガスは何時もの飄々とした顔に戻ってそれからは表情が凍り付く事も無く安寧に過ごしている様子で、相変らず飯はモリモリと食べているし、今はジャスティンを起こす手段も遠慮が無く盛大に蹴っ飛ばして起こす荒療治を覚えたようで、お陰様で遅刻する事も無いジャスティンは不満ながらも感謝していたが、あれで本当に良かったのか、今でも自信の無いジャスティンはアンガスが吹っ切った理由を思いつかず、困惑にボリボリと頭を掻いた。
そのアンガスは病棟の廊下の隅でカレンとカルテを見ながら何かを話し込んでいて、時折二人で顔を上げ笑みを交わしている様子は深刻な事態では無さそうでジャスティンも安堵したが、しっかり者の姉と甘えん坊の弟にしか見えない二人を遠目に見て、春の日差しの所為なのかやたらとキラキラと輝いて見える二人を内心で嘆息を付きながらジャスティンは見守っていた。
その日の昼食の席でもアンガスはどんな料理にでも瞳を輝かせて嬉しそうな顔でモリモリと頬張っていた。
「小児白血病の子はどうなんだよ」
「ええ。再生医療チームと連携を取って、今再生造血幹細胞移植の手筈を整えているところです。現状を保って再来月移植予定です」
シャリアピンステーキの大きな一切れを飲み込んでからアンガスはニコニコと笑顔で答えた。
「糖尿の子もお前の担当だったよな?」
「ええ。此方も再生膵島移植で何とかなりそうです」
内科が得意なアンガスは、主に重篤な内科疾患を抱える子供達の担当を次々と任されていて、今でも自分の担当の子供はウィリアム一人というジャスティンは、面白くなさそうに口を尖らせた。
「やっぱ俺はまだ信用されてないって事なんかな」
「そうですか? そんな事ないと思いますよ」
何事にも動じないアンガスはそう言って最後の一切れを口に押し込んで、膨らんだ頬をモグモグさせながらニコニコと笑っていて、でも自信に満ちたその表情には余裕すら感じさせて一層剥れそうになったジャスティンだったが、いやと思い直した。
――俺も負けていられねぇ。もっと精進しなきゃだ。
最後の一切れを飲み込み終わったアンガスが、じーっと自分の皿に残ったステーキを見ているのに気付いて、ジャスティンは猛然とスピード上げてガツガツと食べ始めた。
*1……ミダゾラム。緩和ケアで使用される事もある鎮痛剤の一種。




