第十章 第六話
まず第一の関門マリアの双子の出産を無事に終えたジャスティンは絶好調で今日も今日とて病院内を駆けずり回っていたが、二人でライアン先生を見舞った日以来アンガスは何処と無く元気が無く、昼食を半分残した日に至ってはジャスティンが「お前何処か具合が悪いんじゃないのか」と思わず心配をしたほどで、カルテを抱えて小さな身体でトボトボと歩いている様子は本当に迷子の仔犬の様でジャスティンは語らない背中にフゥとため息をついた。
「アンガス、最近元気ないのよねぇ」
自分の事はウォレス先生と一応は呼び始めた病棟看護師カレンはアンガスの事は今でもアンガスと呼んでいて、何時の間にやら隣に並んで頬に手をやって考え込んでいる風情のカレンも何処かやるせ無さそうであった。
「ライアン先生の事が余程ショックだったんだろうなぁ」
ボリボリと頭を掻いたジャスティンを見上げて、カレンはフッと首を竦めて呆れ顔をした。
「何よ、ウォレス先生何も気付いてないの?」
「何をさ」
「アンガスが心を開かないのには何かきっと理由があるのよ」
「いや、それは俺も気づいてるけどさ。でも本人が何も話そうとはしないから、理由まではなぁ」
「そうよね、結構裕福な家庭で幸せに育った筈なんだけど」
ジャスティンも知らない情報を握っているらしいカレンを見下ろして、「へ?」とジャスティンはあんぐりと口を開けた。
カレンの話に依るとアンガスの父親は有名な医療ジャーナリストだったらしく自身でも医学博士の称号を持っていたらしかった。
「それでアイツあんなに沢山医療関係の本を持ってたのか」
納得をしたジャスティンは一人うんうんとしたり顔で頷いたが、カレンは山盛りのフィッシュ&チップスの皿を前に、夕食にしては豪快に頬張っていた。
「アンガスは元々ロンドン出身なの。ご両親は大暴動の最中に不幸にも亡くなられたらしいわ。それで叔母さんを頼って比較的治安が安定していたプリマスのモーリスタウンに移ったらしいの」
「うお、デポンポートの直ぐ隣じゃねぇか」
研修で訪れた事もあるデボンポートの海軍訓練校を思い出して、ジャスティンは飲みかけのお茶をブッと吹いた。
「其処でこの病院に来るまでの間細々と一人で勉強してたらしいんだけどねぇ」
ジャスティンが摘もうとした時には皿は既に空で、カレンは満足そうにナプキンで口を拭ってフゥとため息をついた。
聞けば聞くほどアンガスの来歴には何の問題も無いように見えて、暴動で両親を失ったトラウマかとジャスティンが腕を組んで考え込んでいる前で、カレンはトレーを手にしてもう立ち上がっていた。
「私達には分からないその何かを、アンガスは自分で乗り越えなくちゃいけないのよ。だから悩んでいるんだと思うわ」
「俺らが何かしてやれる事は無いのかよ」
口を尖らせて見上げているジャスティンを見下ろして、カレンは内心で『この男は、本当にこういう憎めない奴よね』と思ったが、口には出さずに代わりに笑みで返した。
「そう思ってるだけでいいんじゃない?」
素っ気無いカレンの背中を目で追ってジャスティンはベーと舌を出した。
幾ら絶好調でも日勤を終えてそのまま当直、そして明日も外来が終わるまでは帰らせて貰えない予定のジャスティンが、アンガスの「僕が残ってますから休んできていいですよ」という言葉に甘えてソファで仮眠を貪って寝惚け眼で起き出すと、アンガスは書き物の手を止めてジャスティンに冷たい麦茶入りの小瓶を差し出した。
「お、サンキュ」
アンガスの支えになれればと思いつつもこうして甘えてしまっている自分が恥ずかしくて、ジャスティンは寝癖のついた銀髪をボリボリと掻いた。
「しかし遅くまで頑張るな、アンガス」
冷たい麦茶を一気に流し込んで目が覚めたジャスティンは、医局内の大テーブルに腰を下ろして相変らず本に囲まれたアンガスの顔を覗き込んだ。
「卒験の準備ですよ。先輩も早く始めないと落ちちゃいますよ」
自分は温かいお茶のカップを抱えたアンガスにクスッと笑われて、初めて自分がこの八月に卒業試験を受けて医師になる事を意識したジャスティンは焦りの浮かんだ顔を引っ込めた。
「大丈夫だ、気にすんな」
そう大見得を切っては見せても自分は去年ブランクがあるし、と口の中でブツブツ呟いているジャスティンを見上げて、アンガスはクスクスと笑っていた。
無事医師になったら聖システィーナ地区に小児専門病院を開いてと夢を描いているジャスティンだったが、ふと気付いて眉を寄せた。
「どうかしたんですか?」
「ああ。俺ん家の医院、どうすっかなと思って」
自分が後を継がないという事はウォレス病院は父母の代で終わりという事で、地域に頼られている自分の実家がそれで済むんだろうかと思ったジャスティンは表情を曇らせた。
「先輩は聖システィーナに医院を開くんですよね?」
「ああ。約束だからな」
もう色々なところで約束したと指折り数えているジャスティンを見上げて、アンガスもフゥとため息をついた。
「実家が医院っていうのも大変なんですねぇ」
「お前は親父が医療ジャーナリストで良かったよな。今は医者の方が必要で、後継がなくても良さそうだし」
何気なく言った言葉だったがアンガスの表情がまた凍り付いた。
そう言えば、この話はカレンからの極秘情報で秘密だったと思い出したジャスティンはしまったと口を噤んだが、また心を閉ざしてしまったらしいアンガスが平素の表情へと戻る前にジャスティンは立ち上がってアンガスの傍らに立ち、アンガスが頑なに下ろしているシャッターをこじ開けようと金髪の小さな頭を両手で抱え込んでアンガスに顔を寄せた。
「アンガス。泣きたい時には泣け」
「え?」
まだ戸惑って視線を左右へと泳がせているアンガスの顔を両手で包み込んで、ジャスティンは尚も言った。
「俺が悪かった。お前にとっては聞きたくない話だったんだよな。でもアンガス、傷が痛む時は泣いていいんだ。いや、悲しい時には泣かなきゃダメなんだ」
自分はあの時、オークニー諸島で傷ついたジョセフの心を癒したオルコットの様にアンガスを優しく包み込めるだろうかという不安がジャスティンの心を過ぎったが、しかし、この一歩を踏み込んで前へと進んで一人を救わなければ己のこの手で誰も救えないような気がジャスティンにはしていた。
アンガスが小さく震えているのが掌を通して伝わってきて、涙が一杯に溜まった緑の瞳を覗き込んで、ジャスティンは無言で頷いた。
ジャスティンに縋り付いて声を殺して泣き続けていたアンガスは、やがて堪えきれなくなったのか、まるで少年の様に声を上げて泣き出した。
途切れ途切れの嗚咽を上げてジャスティンの背に細い腕を回してギュッとしがみ付いている様子は儚さと弱々しさしか感じられなくて、暫くの間は誰も呼び出しに来ないといいがと願いながら、泣き止む気配のないアンガスの背をポンポンと叩いて、ジャスティンはこみ上げるため息を内心で押し殺した。




