第十章 第四話
自分の科と産婦人科と特別室を慌しく出入りするジャスティンは、目の回る忙しさも苦にならずに軽快に職員用鉄階段を駆け上がっていたが、多忙になったのはヘザーの付き添いに来ているハナも同様らしかった。ヘザーがリハビリ等で不在になる時には大きな身体を揺らして産婦人科まで出向いて、ベッド上で安静を命じられているマリアの世話も甲斐甲斐しくみていて、気配りや手際の良さは看護師以上と巷で評判になりつつあった。
午後の外来も終わり穏やかな病棟の様子で今日は無事に帰れそうだという夕刻、ジャスティンはアンガスと共に医局長室に急遽呼び出され、しかめっ面の医局長ヒックス・ストライド医師を前にしてまた叱責かと殊勝な顔付きで立っていた。
二人を前にしたまま長い間黙り込んでいたヒックスは、フーッと長いため息をつくとボリボリと頭を掻いてから顔を上げた。
「実は、ライアン先生が再入院になった」
手元のペンを手に弄びながらさり気無く口にしたヒックスだったが、その顔には消せない苦渋が浮かんでいた。
昨年早期の胃がんを克服したばかりだと言うのに、再入院という事は思い当たる点は一つしか無く、ジャスティンの顔も強張った。
「転移、ですか?」
「それがな」
言葉に詰まって空を見上げたヒックスの顔が何だか泣き出しそうに見えて、ジャスティンは唇を噛んだ。
ライアン医師の胃がんは彼が語っていた様な早期では無く、実はその時点で既にもう肺転移が確認されていたとヒックスは重い口調で言った。
「片肺切除術を受ければ存命も可能だったかもしれないが、自分の年齢を考えるとそうなるともう医師としての勤務を続けるのは無理だろうと先生はおっしゃった。自分は医師として生きたいと」
ヒックスは何も言えずにいる研修生二人を見据え、もう何時もの英知の光る瞳を取り戻して続けて言った。
「お前らに出来る事は一つしかない。ライアン先生に小児科はこれなら安心だと思えて貰える様に精進する事だけだ」
震える拳を握り締めていたジャスティンは、自分の真横に立っているアンガスの肩が小刻みに震え続けているのを黙ったままじっと見ていた。
「済まないねぇ。また忙しくなって」
元々小柄で痩せていたライアン医師であったが、こけた頬は一層弱々しく感じられて、見舞ったジャスティンとアンガスを何時もの穏やかな笑みで見上げている顔にはもう呼吸チューブも付けられていて、自分で身体を起こす事の出来ない医師を支えたジャスティンは、余りの軽さにこみ上げる想いが漏れ出さない様に固く唇を結んでいた。
「君のお陰で医局長の交代も間に合ったし、これでゆっくりと骨休めが出来るよ」
薄くなった白髪に手をやって老医師は嬉しそうに笑っていた。
「……どうか、暫くの間ゆっくりと休んで下さい。自分達がその分働きますんで」
「うんうん。こうして見ると二人共もう立派な医師だねぇ」
ケーシー型の白衣のジャスティンとアンガスの二人をニコニコと眺めながらライアン医師は一人うんうんと頷いていた。
「先生、僕に、僕に出来る事は無いですか」
アンガスはやっぱりそぼ降る雨に打たれている仔犬の様に見えて、思わず抱き締めたくなる小さな身体を震わせているアンガスを暫し見つめていたライアン医師はフッと小さく笑った。
「君が抱える全てを乗り越えて立派な医師になってくれる事が僕の望みだよ」
骨の上に皮が張り付いているだけの指の長い皺だらけの手を伸ばして、ライアン医師はアンガスを宥める様に頭を撫でた。
「それに、僕も少しは終末期医療については学んできたからねぇ。此処の前の院長を務めてらしたサー・デビッド・フェアフィールド医師を君達も知っているだろう? 彼等の終末期医療に関する研究成果がノーベル医学賞を受賞した時には僕も本当に嬉しかったねぇ。僕は彼に憧れて医師になってね。彼の息子さんのセドリックとも、長い間一緒に仕事をしてきたんだよ」
ゆっくりと目線を部屋の入口に移したライアン医師の視線の先を追って振り返ったジャスティンの瞳には、霧雨に打たれた二匹目の仔犬、スティーブ・フェアフィールド医師の姿があった。
スティーブはそのデビットの孫であり、父セドリックをあのW校での壮絶な戦闘の中で失っていて、その後継を担う若い医師を見上げてライアン医師は一層頬を綻ばせた。
「君はもう立派な医師だねぇ。きっと、よくぞソフィー嬢を治してくれたとお父さんもお祖父さんも喜んでいるよ」
泣き出しそうな顔で、それでも必死に堪えているスティーブの顔を見上げながら、ライアン医師は満足そうに穏やかに笑っていた。
小児科医局へと戻ったジャスティンとアンガスは、互いにずっと黙り込んだままだった。
確かにヒックスが言う通りで、小児科医の自分にライアン先生の治療について何か出来るとは思えなかったし、温厚な中に医療への情熱を秘めた老医師の柔らかな眼差しの奥底にも自分達への期待が見え隠れしていて、その期待に応える事こそが唯一の恩返しだとも思えたが、まだまだ自分は未熟で教えを請いたい事が沢山あったのにと、ジャスティンはテーブルに頬杖をついて深いため息をついた。
一方のアンガスも、投げ掛けられた言葉を繰り返し頭の中で反芻しているのか小さな声でブツブツと何かを呟いていて、そう言えばライアン先生は『抱える全てを乗り越えて』と言ってたなと思い浮かべたジャスティンは、自分も感じているアンガスの心の中の闇をライアン先生も密かに気付いていたのかと、顔を上げようとしないアンガスの小さな頭をじっと見つめていた。
「頑張るしかねぇよなぁ」
ポツリと寂しげに呟いたジャスティンの言葉にようやくアンガスは顔を上げた。
「俺らもライアン先生みたいな医者になれるかな」
それは自分自身が決める自分の在り様次第なのは分かっていたが、踏み出したばかりの道程の後ろはまだ僅かで、目の前には遠くまで続いている道程を振り返ってジャスティンは途方に暮れて空を見上げた。
「ええ、きっと」
アンガスもまだ自信が無いのか弱々しい小声で、重苦しい空気の立ち込めた医局にはどんよりとした雰囲気が漂っていたが、そんな気配を全て薙ぎ払って足音高く駆け込んできたカレンの顔は、固く強張っていた。
「ウォレス先生! 産婦人科から緊急連絡が」
今朝はあんなに元気そうだったのにと、焦りの浮かんだ顔で駆け出したジャスティンは、後ろを振り返らずに真っ直ぐ産婦人科病棟へと廊下を駆け抜けて行った。
*1……CM。cancer metastasis(がん転移)の略。




