第十章 第二話
「先生! 俺怪我しちゃってさ!」
大声で叫びながら医務室の扉をノックもせず開けたのはロドニーで、まだ肌寒い三月だというのに半袖のシャツの左肘を見せながら何処かウキウキとして嬉しそうだった。
確かに左肘には擦った様な擦過傷があり僅かに血が滲んでいたが、普段ならそんな傷は傷とも思わず放っておくロドニーが足繁く医務室に通うのには理由があった。
「あらあら、ロドニー、傷を見せて頂戴ね」
長い黒髪をゆったりと縛って白衣に身を包んだカメリア・オハラ医師は穏やかな笑みで微笑んだ。
この三月からカメリアは国立中央病院から此処W校へ派遣され、十一名の子供達と教職員達、そしてその家族達の医療を一手に引き受ける事となったカメリアは、手始めとしてまず全員の健康診断を行い、病歴など丁寧に聞き取ってカルテを作成する事から始めたが、特に子供達は皆健康で恙無い事を安堵していた。
「ロドニー、今週これで三回目よ。少し気をつけなきゃね」
痛がる素振りを全く見せないロドニーの左肘に塗り薬を塗りながらカメリアはクスッと笑ったが、ロドニーは得意そうにフンと鼻で笑った。
「これぐらいしょっちゅうだから何でも無いよ」
「でも、お父さんになったらそうそう転んでなどいられないわよ?」
カメリアが嫣然と笑うとロドニーはボッと顔を赤くしたが、思い直した様にブンブンと首を振り、顔を引き締め直して真面目そうな顔を繕った。
「俺大丈夫だよ。赤ちゃんを落っことしたりしないよ!」
その一言で自分が夏には一児の父親となる事を思い出したのか、ロドニーは至極真面目な顔で立ち上がってカメリアに頭を下げて、「ありがとうございました!」と叫ぶと、またバタバタと医務室を出て行った。
子供達が皆元気なお陰で、今のカメリアの仕事と言えばこうした小さな傷の手当てぐらいではあったが、再び静かになった医務室でカメリアは一冊のカルテに目を落とした。
第五年生のティア・ミドルトンは飛び級扱いのまだ十四歳で頭も良く、運動も得意で筋肉の発達した健康体であり何の問題も無いように思えたが、彼女のカルテの最終ページに閉じられているDNA分析リストをじっと見ているカメリアの黒い瞳には、僅かに悲哀の色が浮かんでいた。
――此処まで類似形だとすれば、恐らくは。
もう一冊並べて置かれたカルテ、外国語教授ビリー・ローグの妻テレサのカルテとを見比べてその真実に気付いたカメリアは、この二人、恐らくは母と子の二人の境遇を想って深いため息をついた。
――ウォレス先生はローグ教授のご友人だから、多分彼は知っていたのね。
嘗てこの疑問をジャスティンに問い質した時に、一瞬彼が見せた強張った表情の意味を知ったカメリアは、何故その真実が明かされてはいけないのか、その理由も朧げに察してはいた。
まだ少女の様な屈託の無いテレサの笑みを思い出して、カメリアはもう一度フーッと長いため息をついた。
「オハラ先生、綺麗よねぇ」
うっとりした視線を泳がせているのはティアで、赤毛を短くしたスポーティなタイプのティアはカメリアのような女性らしい容姿に憧れがあるらしく、隣で苦笑いしているコリンにうんと言わせようと何度も「ね?」と話し掛けていた。
ロドニーは今日は定例の校長との空手の稽古の最中で、エドナは定期診断の為に訪れた国立中央病院からまだ戻っておらず、九名の子供達はまたしても天文クラブの部室に顔を揃えていた。
「でも前に見た時はもっとこう、ゴージャスな感じじゃなかった?」
今日のおやつブルーベリージャムタルトを嬉しそうに頬張りながらも小首を傾げたアデラは隣の兄ザックを振り返ったが、さぁねと言う様にザックは首を竦めて、指に残った甘いジャムの残りを舐め取ってソファに背を預けてゆったりと座り直した。
「だって俺ら男子は前には会ってないからな。まぁ容姿も合格だが、腕も合格なようだな」
「お兄ちゃん、何偉そうに言ってんのよ」
アデラに突っ込まれてザックは照れ隠しにボリボリと頭を掻いた。
「でもまぁ、これで大人も子供も安心だよね」
「うんうん。テレサも心配だったもんね」
二人同時にタルトを食べ終わったキッドとアキが顔を見合わせて頷くと、誰もが同じ事を想っていたのか皆同じ様に頷いた。
今では明るく元気に過ごしていて、最近は盛り付けだけでは無く料理やお菓子作りにも奮闘しているテレサが、嬉しそうにニコニコ笑って「おいしくなぁれ」と歌いながらこのタルトを作っていた姿を思い浮かべたビアンカは、少しだけ形は歪だが甘いジャムの沢山載ったタルトを手にしてにこやかに微笑んでいた。
その夜は立ち込めていた雲が途切れ、隙間から月明かりも零れる明るい夜だったが、校舎を出て職員宿舎へ向かうカメリアの足取りは重かった。
先程ローグ教授から聞いた話がカメリアの脳裏に何度も木霊して、やるせない思いを胸の内に抱えていたカメリアは雲の途切れた空を見上げた。
こんな時にはあの人が傍に居てくれたらいいのにとも思ったが、これが自分に託された道なのだと思い直したカメリアは顔を上げて歩き始めたが、職員宿舎の入口で所在無げに佇んでいる人影を見つけて立ち止まった。
「よお、遅くまでお疲れさん」
「ヒックス!」
照れ臭そうに笑みを溢した夫に、カメリアは走り寄って縋り付いていた。
「お前が泣いてる気がしたから、なんて格好良い事言えればいいんだが、残念だな。俺がお前に会いたくなっただけで」
ベッドや簡素な家具以外には大量の書籍の詰まった箱が置かれているだけの部屋で、ベッドに起き直ったヒックスは冷蔵庫から取り出したエールを呷って苦笑いを溢した。
「ううん。来てくれて嬉しかったわ」
穏やかな気持ちを取り戻したカメリアは、寝乱れた黒髪を丁寧に手櫛で撫でて嬉しそうに少し頬を染めた。
「人の愛の形は其々に違うけれど、どれも美しいわね」
ポツリと呟いたカメリアをヒックスは振り返った。
「夫婦の愛も、親が子に向ける愛も、兄弟同士や友情も。此処には様々な愛の形があるけれど、千尋の谷を越えて尚結びついている愛は、本当に皆美しくて、そして愛おしいの」
「そうだな」
エールをベッド脇の棚に置いたヒックスは、空いた手でカメリアを引き寄せた。
宿命を負った妻を守ろうとするビリーの姿も、想像を絶する環境の中で助け合って生き延びてきたBVIの子供達も、そして自分の出自を知らずに明るく生きるティアの姿も、カメリアには何よりも愛しく、そして自分が皆を守らなくてはという思いが沸沸と湧いて来るのを感じて、夫の胸に頭を預けて微笑んだ。
「私、医師になって、貴方に出会えて本当に良かったわ」
頬に照れた紅が浮かんだヒックスは盛大に頭をボリボリ掻いて、甘い香りのするカメリアの黒髪に顔を埋めて腕に力を籠めて温かい妻の身体を抱き締めた。




