第九章 第一話
今年の冬はロンドンでも降雪が多く、眼下の銀世界を見下ろして、今は寒さに苛まされる事も無い自分にジャスティンは安堵の吐息をついたが、それ以上に冬の寒さに弱いウィリアムが院内で健やかに過ごしている事の方が、ジャスティンにとって安心の一番の材料であった。
着々と回復しているヘザーも家族と離れ離れで寂しいだろうが、良く見知ったハナが傍にいてくれる事が嬉しいらしく、先週半ばには呼吸チューブも外れた彼女は病床の日々を穏やかに過ごしている様子だった。
相変らず風邪は流行っていて、お陰で小児科も大繁盛だったが、そんな週末の土曜日にエドナが国立中央病院へやってきた。
前回の怪我の時に解凍してしまった分の貯血をする為であったが、今日は付き添いのW校国文学教授ランディ・シェリダンと一緒で、何時も一緒のロドニーの姿は無かった。
「ロドニーは補習なの」
エドナがジャスティンの怪訝そうな顔を見てクスッと苦笑いして、納得がいったジャスティンは、ロドニーが不貞腐れている顔が頭に浮かんでクスクスと笑みを溢した。
一階の救護センターの看護師にエドナを託して、週末は必ず病院に来て妻子を見舞うシェリダン教授と歓談しながら三階の小児科へと戻ったジャスティンは、珍しく医師が顔を揃えている医局の椅子にどっかと腰を下ろした。
「今日はエドナ嬢が貯血でしたっけ?」
今度は小児白血病の子供を受け持つ事になったアンガスが、顔を上げずにPCの画面に忙しなく目を走らせながら問い掛けてきて、立ち上がって「ああ」と頷いたジャスティンは冷蔵庫から麦茶入りの小瓶を取り出し、「俺にも寄越せ」と、此方も後ろを振り返らずにボソッと呟いたヒックス・ストライド主任医師に苦笑をしながらジャスティンはもう一本の小瓶をヒックスの傍らに置いて、冷えた麦茶を豪快に喉に流し込んだ。
「僕もそろそろ次の貯血をしとくかなぁ」
宙に瞳を泳がせて呟いているアンガスも、エドナと同じAB型のRH‐D‐という特殊な血液型で、其々が万が一に備え自分の血液を冷凍保存していた。
「もう二千mlは貯血してんだろ?」
「ええ。でも、あればあっただけ安心ですし。万が一の時には彼女にも使えますし」
エドナを気遣うアンガスの言葉にジャスティンは頬が綻び掛けたが、それまで背を向けていたヒックスが何気に振り返って研修生達を斜に見て笑った。
「心配すんな。一度に二千以上も輸血をしなけりゃならないような怪我だと、お前死んでるから」
ケタケタと笑ったヒックスにアンガスは泣き出しそうに瞳を潤ませていたが、このところこの無愛想な主任医師が怒鳴り散らさないのはやっぱり原因は一つだけだよなと、少し鼻歌混じりでまた机に向き直ったヒックスの背中にジャスティンは内心で笑い掛けた。
一服したジャスティンが病棟でも見回ろうかと立ち上がった時、医局の入口に病棟看護師カレン・ホッグスが現れて少しらしくなく強張った顔で「ウォレス先生」と声を掛けてきた。
「何だよ」
また小言か文句かそれとも仕事の命令かと警戒したジャスティンが口を尖らせても、カレンの表情は緊張が解れず困惑が寄せられた眉に浮かんでいた。
「今、一階から連絡が来たんだけど、エドナ・イゼット嬢の貯血が中止になったそうよ」
「何でさ」
顔色も良さそうで元気だったエドナに何かあったのかと、二人の小児科医も一斉に顔を上げてカレンを振り返り、三人の医師に見つめ返されながらカレンは小さく息を吸って一気に台詞を吐き出した。
「へ?」
様々な疾病が頭に浮かんでいたジャスティンだったが、カレンが告げたその可能性だけは思い付いていなかった。
救護センター内の医務室のベッドに横たわったままで、検査の為の採血の後何時まで経っても貯血が始まらない事に少し不安なのか、エドナは通り過ぎる医師や看護師達を目で追っていて、入って来たジャスティンの姿を見止めると少し嬉しそうな顔をした。
「ジャスティン」
無言でエドナの脇に腰を下ろしたジャスティンは、一瞬逡巡する表情を見せたが、直ぐに医師の顔に戻った。
「エドナ。今日の貯血は中止になった」
「え? どうして?」
医師の道を目指しているエドナも瞬時に様々な疾病を思い浮かべたのか強張った顔になったが、ジャスティンは強張った表情を息をついて和らげて、笑みを浮かべながら言った。
「エドナ。君は妊娠してるんだ。君のお腹には赤ちゃんが居るんだ」
言葉を失ったエドナは少し口を開けて戸惑った表情をしていた。
どうやらエドナには思い当たる事柄があったらしく、照れた頬を赤らめてジャスティンから目を逸らした。
「ロドニーの子、なんだろ?」
ジャスティンの問い掛けにエドナはコクンと頷いた。
「この後、産婦人科で診察を受けてこい。其処で出産の為の必要な手続きを取るそうだ」
「……産んでもいいの?」
早すぎる妊娠を責められると思っていたのか、エドナは意外そうにジャスティンを振り返った。
「エドナが大好きなロドニーの子を産みたくないわけないもんな」
そう笑って首を竦めたジャスティンの明るい笑顔を見て、やっと安堵の表情を浮かべたエドナは小さく何度も頷いた。
しかしまだ中等教育校に在学中の学生である以上、この事を学校側に伝えないわけにもいかず、ジャスティンは家族を見舞っていたシェリダン教授を三階のカンファレン室に呼び出した。
最初教授は戸惑った顔をしているだけだったが、彼等がこの国に来た経緯や二人が付き合っている事は知っていたらしく、最後には「そうですか」と穏やかな表情に戻った。
「我々は特異な血液型である彼女が安全に出産に至るよう、全面的に協力する事で一致しています」
エドナと一緒に産婦人科まで行ったジャスティンは、担当となる主任医師に頭を下げてエドナの事を依頼していた。
「学校側でどのように判断されるのかはお任せ致しますが、自分としては、彼等に、あの子達には幸せに生きて欲しい、それだけです」
出会ってから数年間、子供達の成長を見守ってきたジャスティンの真剣な眼差しに応えて、シェリダン教授は静かに頷いた。




