第一章 第六話
先日の乳幼児検診の結果を携えてW校を訪れたジャスティンを、ビリー・ローグは素っ気無く「ご苦労」と言って出迎えて、折角の休日に遠い所から足を運んだ友人に感謝の欠片も見せないビリーに、ジャスティンはムスッとした顔で言った。
「お前な、医師を顎で使って、その言い草はないだろ」
「だってお前まだ医師じゃないだろ」
「そりゃまだ研修医扱いだけど、一応診察の許可は得てるんだぞ」
「んじゃ、仮免だな」
お茶も出さずに自分の娘の検診結果に見入っているビリーは顔も上げず、一層剥れたジャスティンはソファに腰を下ろして、睨みを利かせた顔でテーブルに肘をついてビリーを見上げた。
「問題ないようだな」
「ああ、父親以外は全く問題ないな」
「まぁな。本人が問題なければ、親なんてどうでもいいさ」
ニヤッと笑ったビリーは、ようやくジャスティンに顔を向けた。
W校で仏語独語など外国語を一手に担うこのビリー・ローグも、以前はジャスティンと同じスコットランド陸軍第九十九AAS大隊第二中隊S班の一員だったが、運命の女性テレサと出会って彼女を守る道を選び、このW校教師に転職していた。
同期として同じS班に配属されて、崩壊した世界の最前線で共に戦ってきた男は、友人というよりは盟友で、ジャスティンにとって唯一無二の親友だったが、聡明で冷静沈着なビリーはジャスティンをおちょくるのが趣味のようで、掌の上で転がされている感覚に、たまにはムカつくジャスティンではあったが、それが彼らの友情にひびを入れる事はなかった。
「で、どうなんだ、研修生活は?」
寄宿舎の舎監の妻ベティが、にこやかにお茶を運んでくれた後、そのカップを手にビリーは悠然とジャスティンに向き合った。
「お陰様で、色々と快適だ。此処最近は呼び名が『ロリコン』から『冷たいロリコン』に変わったけどな」
同じくカップを手にしたジャスティンが仏頂面のまま切り返すと、ビリーはブッとお茶を吹いて笑った。
「そりゃ中々な渾名だな」
「お前がビアンカは十一歳だってバラしたからだろが」
「俺は看護師に聞かれたから答えただけだ。だけど、あの看護師、驚いてはいたけど口外するようには見えなかったけどな」
その時の様子を思い出すかの様に空を見上げたビリーの横顔を、ジャスティンはじと目で睨んだ。
「じゃあ、他に誰がバラすんだよ」
「さぁな。まあどっちにしろお前の恋人がビアンカで、彼女が十一歳という事実は変わらないけどな」
シレッとしたビリーの言葉に、ジャスティンは面白くなさそうに口をヘの字にした。
「こんにちは、ジャスティン。検診に来てくれたの?」
満面の笑顔でビリーの妻テレサが娘を抱いて現れると、場の空気が一気に明るくなった。
カナダの元【核】で、長い間精神を病んでいたテレサは今もまだ少女の雰囲気が抜けなかったが、丸々とした赤ちゃんを抱いている姿は幼さを感じながらも母の強さを滲ませ、愛し子に向ける眼差しの落ち着いた光に、ジャスティンは安堵して笑みを溢した。
「この間の乳幼児検診の結果を持ってきたんだよ。何も問題なし、健康優良児だ」
その言葉にテレサは嬉しそうに笑って、六ヶ月になって仕切りに笑う娘メアリー=アンに微笑んだ。
「赤ちゃん、元気ね」
金色のフワフワとした髪を揺らし、赤みを帯びたふっくらとした頬で母親を見上げキャアキャアと笑っている赤ちゃんのぷっくりとした小さな手を見て、この母子が穏やかに育っていってくれている事にジャスティンはホッとした顔を綻ばせた。
「この間は少し背中に汗疹があったけど、治ったかい?」
「うん! ジャスティンの言う通り、貰った薬を塗って、汗を掻いたらこまめに拭いてあげるようにしたら綺麗になったわ」
母親の顔でニコニコと笑っているテレサに、ビリーも隣に座った妻に微笑み掛けた。
「毎日、夜中でも起きて、そっと拭いてあげてたもんな」
「うん。ずっと拭いてあげたほうがいいのかしら」
両腕に抱えた赤ちゃんをあやしながら、テレサが不安そうな顔をジャスティンに向けたが、ジャスティンは首を竦めて笑った。
「もうじきに寒くなってくるから、もう拭かなくても大丈夫だよ、テレサ。今度は赤ちゃんが冷えないように気をつけてあげないとね」
「うん!」
上気した頬でにっこりと笑うテレサは美しく、ジャスティンには辛らつなビリーも、妻には優しい穏やかな瞳を向けていた。
小さく欠伸をし始めたメアリー=アンを抱えて、テレサが自室へ戻ってしまうと、男二人残された寄宿舎の談話室でジャスティンは何やら考えていたが、何かを思いついたらしく、「なぁ」とビリーにニヤニヤと笑いながら声を掛けた。
「お前、何時来ても暇そうだが、給料は大丈夫なのか? 援助してやろうか?」
確かに、まだW校には生徒は八名しか居らず授業は飛び飛びで、妻の面倒を見る必要があったビリーは寄宿舎に居残っていることが多かった。
「そりゃ有り難い。くれ」
揶揄されていることも分かっていながら平然と返したビリーに、ジャスティンは口を曲げてブツブツと文句を言った。
「阿呆言うな。研修医なんて給料なんてないようなモンなんだぞ」
「お前、自分で援助するって言ったじゃないか。まぁ、有って困るモンでもないしな。くれ」
「お前なぁ、あのクローゼットの中の膨大な衣類ゴミを売りゃあいいじゃねぇか」
お洒落が趣味のビリーの衣装は妻テレサよりも数が多く、多くがクローゼットの肥やしとなっていたが、ムッとしたビリーは眉を寄せた。
「軍と違って、ここじゃ毎日私服なんだ。どのアイテムもコーディネートには欠かせない」
着る物など何でもいいジャスティンは「ケッ」と横を向いた。
「もう嫁も居て誰に見て貰うでもないし、お前、着飾るなんてどうでもいい事だって言ってなかったっけ?」
一時、軍で自分を見失った時に口走った言葉を言われて、ビリーはムッとした顔で顔を赤らめた。
「まぁ、そう思った事もあったし、それは事実だ。だが相手が子供達となると、まずは信頼関係の構築が重要なんでな。自分のキャラクターに合ったアプローチがある。俺は清潔感溢れる聡明で穏和な教授だが、怒ると厳しいというスタンスだ。それの何が悪い」
開き直ったビリーは、フフンと鼻で笑った。
返す言葉も無く呆れて横を向いたままブツブツ文句を溢しているジャスティンの横顔を、ビリーは暫く黙って見つめていたが、徐にフッと笑った。
「お前は身なりはまぁ残念だが、性格は真っ直ぐで人を惹き付ける笑顔を持ってる。そのままでいい」
ゆっくりとビリーに向き直ったジャスティンに、ビリーは琥珀色の瞳を少し細めて、小さく頷いた。
「そのままでいいんだ、ジャスティン」
真顔になった親友の言葉に少し照れて、また横を向いて「おう」と答えたジャスティンは、誰も分かってくれなくてもコイツだけは分かってくれると、素っ気無いがさり気の無いビリーの思いやりを感じて、視線を落として小さく笑った。