第七章 第九話
ジャスティンが説教をした翌日も院内にヒックスが姿を見せる事は無かったが、それでもジャスティンは然程心配はしてなかった。
だが小児科が大混乱なのは変わらずで、外来時間前に病棟回診を済ませ、看護師との打ち合わせも大急ぎで済ませた研修生達はアンガスはそのままER当番に借り出され、今日は胃癌の術後の検査があるという医局長のライアン医師が「済まないねぇ」と言いつつ、外来診療を初めてジャスティン一人に任せた。
「先生、まだ十人待ちですよ」
時計の針はとっくに十二時を回っているのに、外来看護師が無情に告げたその数だとまだ後一時間半は掛かるなと頭の中で計算したジャスティンは、鳴き出しそうな腹の虫を押さえ込んで「ああ」と頼りない声を出したが、情けない顔でカルテに向かっているジャスティンの横にさり気無く何かが置かれ、顔を上げたジャスティンを若い外来の看護師がクスクスと笑っていた。
「次の患者さんは五分後に呼びますので」
机の脇に置かれたトレーの上には湯気の立つお茶と丸い小ぶりのスコーンが二個置いてあって、「サンキュ」と屈託無い笑顔で見上げたジャスティンを、以前はジャスティンをロリコンと呼んでいたその看護師は首を竦めてクスッと笑った。
「済まなかったねぇ」
ニコニコと笑うライアン医師に声を掛けられて、少し照れた顔で「いえ」と返したジャスティンは恥ずかしそうに鼻を掻いた。
「それにしてもストライド先生は、どうしようかねぇ」
此処まで欠勤が長く続くと幾ら温厚な医局長でも、院内の圧力もあって庇い切れないようで、困惑した眉を寄せてため息をついたが、首を竦めたジャスティンは気軽に返事をした。
「多分、後二~三日もすれば出てくると思いますよ」
「おや、何でそう思うのかい」
老医師は身体をジャスティンの方へと向けて、杖を支えに大柄なジャスティンの顔を覗き込んだ。
「ストライド先生はもう気付いているからです。それにもう一人、気付いてる人が居ますから」
分かるような分からないような、取り止めもないジャスティンの返事にライアン医師は少し首を傾げたが、やがてフワッと笑った。
「それなら大丈夫だねぇ。じゃあ年末には間に合うかねぇ」
此方もよく分からない返答に今度はジャスティンが首を傾げたが、ライアン医師は温厚に笑いながら言った。
「ほら、僕ももう歳だし、病気の事もあるしねぇ。来年からはストライド先生に医局長をやって貰おうかと思っててね」
「そりゃ凄いですね」
何が凄いのか分からないがジャスティンは目を丸くした。
「君達に続く若手医師も育てて貰わないといけないし、そうか、後二~三日だね」
「あ、いえ、それは多分って事で」
途端にボリボリと頭を掻いたジャスティンを見上げて温厚に笑いながら、ライアン医師は何度も頷いていた。
ジャスティンが指摘したもう一人の人物カメリア・オハラ医師も小児科で何が起きているのかは知っていた。流石に病院内でも噂になっていて気を揉んでいたカメリアに、ジャスティンがさり気無く一言告げた。
「ストライド先生は、過去の自分と戦ってます」
それだけを告げたジャスティンの広い背中を見上げて、カメリアは一人じっと考え込んでいた。
今日も自室に閉じ篭っていたヒックスだったが、今日はもう酒は飲んではいなかった。
壁に背を預けてベッドの上に座り込んで、黙ったまま空を見つめ続けているヒックスに必要なのは一歩を踏み出す勇気だけだったが、躊躇してはまた座り込む彼の元に、一人の人物が扉を鳴らした。
「……オハラ先生」
その日の勤務を終えたカメリアは、自分達が此処へ来た当初住んでいた懐かしい部屋に久しぶりに足を踏み入れ、荒れ果てた室内と荒んだ顔に憔悴がこびり付いている元夫の顔を見て、少し哀しげな顔になった。
「ストライド先生、いえ、ヒックス」
懐かしい名で呼んだカメリアには、ほろ苦い思いがこみ上げた。
「ウィリアムが此処へ来た時から、きっと貴方はまた苦しみを背負うのだろうと思ってたの」
座る場所も無くベッドに腰を下ろしたカメリアは、気まずそうに目を逸らしているヒックスを見ず、伏せた長い睫の下の黒い瞳には消せない哀しみがこびり付いていた。
「俺が一人で勝手に決めて、勝手にした事だ。あの時もお前はそう言って俺を責めたじゃないか」
確かにそうだった。
十八トリソミーの可能性が高いという染色体異常が何を意味しているのか医師である自分も良く分かっていた。だが、もしそうだとしても自分に何一つ相談する事の無かったヒックスの独断をその時は責めたのだった。
「そうね。そうだったわね」
夫の胸を叩いて泣き叫んだあの日の事は、カメリアの胸の中から消えた事は無かった。
「そう、私は貴方が勝手に決めた事を怒った。一人だけで悩まずに私に相談して欲しかった。二人で二人の未来を考えたかったのよ」
顔を上げたカメリアの瞳は、あの時の泣き濡れた瞳にも見えて、ヒックスは後悔しか浮かばない瞳から目を逸らした。
「だからもう一度、二人で二人の未来を考え直そうと思って、そう思って此処へ来たの」
カメリアの潤んだ瞳は哀しみを乗り越えて希望を掴もうと、光を求めて真っ直ぐにヒックスへと向けられていた。
「もう俺達は別れたし、お前は自由にやってる筈だ」
カメリアが病院内で色々な男との間に醜聞を立てているのは無論ヒックスも知っていた。別れる時カメリアが「これで私は自由よ。これからは好きな様に生きていくわ」と平然と言い放った強気の顔を思い出して、ヒックスは自分に向けられている視線を感じながらも顔を上げられなかった。
「それが振られちゃったのよ」
小さく笑みを浮かべたカメリアは、カメリアに別れを告げた時のアンガスの真剣な顔を思い出していた。
「僕は貴女に子供を授けられません。というよりも、貴女は本当はストライド先生の子供が欲しいだけで代わりを手に入れても意味がありません。それだったら二人で沢山の子供を育てたらどうですか。何十人、何百人、何千人と」
そう言って首を竦めたアンガスの顔も何処か晴れ晴れとしていた。
「あのガキがそんな生意気な事を言ったのかよ」
ヒックスは忌々しそうに吐き捨てたが、カメリアは何故だが安堵したような表情になっていた。
「きっとあの子も見付けたのよ、道を」
「道?」
振り返ったヒックスは真っ直ぐな瞳をぶつけてくるカメリアからもう目を逸らさなかった。
「ええ。私達にも道があるわ。貴方にも見えているかしら」
黒い瞳を細めて穏やかに笑っているその顔は、あの時の、生涯を掛けて守ると誓った結婚式の時のカメリアの笑顔だった。
「……カミィ」
二人の間だけでそう呼ぼうと決めた名が、ヒックスの口から零れ出た。
次第に距離を縮めた二人の影が窓から差し込む半月の柔らかい光に包まれて、ほの明るい部屋の中で何時までも揺れ続けていた。
ようやくジャスティンが休日を貰った時には、もう暦は十一月の半ばに達しようとしていて、久しぶりに聖システィーナへとやってきたジャスティンは域内の臨時診療所に顔を出した。
「ジャスティン!」
折角の日曜に何故か診療所を開けているエステラ・ミレット尼僧を囲んで、興味深げに覗き込んでいた少女二人が一斉に顔を上げて、嬉しそうに叫んだ。
「なんだ、ジェマもビアンカも何やってんだよ」
「研修よ。時間がある時には、ミレット尼僧が看護の基本を教えてくれるんだって」
得意げな少女二人を従えて目を細めて笑っているミレット尼僧は、何かを思い出したのか「そうそう」とパチンと手を叩いた。
「ウォレス先生、Mr.シェーカーさんのところの――」
「あーーー! 済みません、ビアンカを借りまーす!」
此処まで来てこき使われたら敵わないと、慌てたジャスティンはビアンカの手を引っ張って脱兎の如く逃げ出した。
「何も逃げる事ないじゃない」
クスクスと文句を言いながらも付いてくるビアンカに「うるせぇ」と返して、遠くに海が見える丘の上まで来たジャスティンは、枯れ始めた芝生の上に腰を下ろして、丘の向こうに水平線が群青の光を煌かせているのを遠くに見た。
「ようやく休みが取れて良かったわね」
その隣にちょこんと座ったビアンカも、ジャスティンに倣って海を見つめていた。
「まぁな。ストライド先生が元通りに、本当に元通りに戻ってきてこき使ってくれてるからな」
ぼやきの漏れたジャスティンは苦笑いした。
本当にジャスティンが言った通りに、その次の日には病院に姿を見せたヒックスは何事も無かったかのように研修生二人をこき使い、不在の間に溜まった書類の山をヒックスの目の前に遠慮も無く叩きつける看護師達も平然としていて、良いんだか悪いんだかと愚痴も零れるジャスティンをビアンカはクスクスと笑った。
「いいんじゃない、道が見付かったのなら」
「まぁな」
院内でオハラ先生とストライド先生が鉢合わせると、互いに少し照れた顔を赤くしているところを見ると、きっと近い内に復縁するんだろうと、胸の痞えが取れたジャスティンは安堵の息をついた。
「で、私達の道はまだかしら?」
悪戯っぽく覗き込んできたビアンカの鼻をツンと突付いて、苦笑の漏れたジャスティンは「もうちょっとだな」と笑った。
「そうだな、胸があと二カップ分ぐらいでかくなったらだな」
「二カップも……」
まだ膨らみ始めたばかりの小さな胸に手を当てて愕然としているビアンカをケタケタと笑いながら、潮の香りのする風を懐かしそうにジャスティンは胸一杯に吸い込んだ。




