第七章 第八話
西日を遮る分厚いカーテンを締め切った薄暗い部屋の中で、堆く積み上がった書籍の山の隙間に僅かに見えている床の上にべったり座り込んで、ヒックスは自分が今飲んでいるエールは何本目だったかと酔いで据わった瞳を虚ろに宙に泳がせて考えていたが、そんな事はどうでもいいかと、不思議と些細な事ばかりを考えようとしている自分を笑った。
しかし、埋めようとしている心の隙間に攻撃の手を緩める事無く忍び込もうとする魔の手は、ヒックスを赦してはくれなかった。
「そうだよ、俺が間違っていたと言いたいんだろ」
誰に言うでも無く呟いて、空になった小瓶を無造作に投げ捨てたヒックスは、ガラスの小瓶が他愛も無く割れる乾いた音を聞きながら、寄り掛かっているベッドに頭を投げ出して空を見上げた。
無精髭やボサボサの頭は何時ものヒックスだったが、消しようの無い酒臭さが染み付いた身体は傍に寄らなくても悪臭が漂い、外来担当の看護師長は医局長にヒックスを外来に出すなと直談判した。
「ここのところ先生は毎日で、一度シャワーを浴びて来いと宿舎へ返したら中々戻って来ないので見に行かせたところ、シャワーどころかまたその場で酒を飲んでいて」
「それは、困ったねぇ」
幾ら温厚な老医師でも流石に眉を顰めた。
「ライアン先生からも何か一言言って頂ければと」
厳格なだけではない看護師長の瞳にもヒックスへの憂慮が浮かんでいるのを見上げて、ライアン医師はうんうんと頷いた。
外来に出たライアン医師に代わって病棟回診を研修生二人だけでこなし、病棟の看護師との打ち合わせを済ませると直ぐにER室に呼び出され外来の手伝いをもこなしていたところに虫垂炎の子供が担ぎ込まれると、もうジャスティンとアンガスにはお手上げだった。
「ストライド先生は今日もお休みなんですかねぇ」
「とは言っても、ライアン先生にはまだ立ちっ放しの手術は無理だ。お前、ストライド先生を呼んで来い」
何時もマイペースのアンガスも流石に堪えているらしく、医局の大テーブルに顎を乗せ空腹の仔犬の様にキュンキュン鳴いていたが、ジャスティンに命令されて怯えた瞳を丸くした。
「えええ。だって昨日起こしに行った男性看護師は、本を投げ付けられたそうじゃないですか」
「感染性の疾病ならともかく、二日酔いなら起きれるだろ。緊急だと言って叩き起してこい」
渋るアンガスを説得して、病院裏手にあるヒックスの居室がある家族用宿舎へと向かわせたが、戻ってきたアンガスは案の定、頭を撫で擦りながら涙目でクンクン鼻を鳴らして帰ってきた。
「先輩~、僕では無理でした」
患者が運び込まれて十五分が経過していて、これ以上待っている時間はもう無かった。
「無理じゃねぇ。やるしかないんだ」
立ち上がったジャスティンの顔はまるで敵陣を突破しようという最前線に立つ軍人の顔にも見えた。
結局は外科医の手も借りて、ジャスティンとアンガスの研修生の二人だけで虫垂炎の手術を乗り切って、無事に手術を終えた子供をICUに送り出すとジャスティンは顔を覆っていたマスクを外して「フーッ」と大きくため息をついた。
「先輩、手際いいですよねぇ」
内科には詳しいが実は外科は不得意だというアンガスは、必死にサポートはしてはいたが始終目を丸くしていて、一応外科医からも合格点を貰ったジャスティンには達成感よりもまだ安堵の方が大きかった。
「しかし、このままじゃ小児科は回らない。何とかしないと」
手術室脇の準備室の手洗い場でザブザブと盛大に顔を洗いながら言ったジャスティンの隣で、自分もゴシゴシと腕を洗っているアンガスは「でも」と表情を曇らせた。
「俺が行く」
タオルで顔を拭って、水滴がついた銀髪を靡かせたジャスティンには、ヒックスが荒れている理由が、何と無くではあるが分かっていた。
その夜、ヒックスの居室をノックしたジャスティンは返事が無くても勝手に扉を開けた。
「ストライド先生」
声を掛けた途端分厚い医学書がジャスティン目掛けて飛んできたが、何冊投げられようと軽々と受け止めるジャスティンは、手元に投げる本が無くなって荒い息をついているヒックスに真顔で告げた。
「貴方は間違ってます、ストライド先生」
ジャスティンが静かに掛けた声に、ヒックスはベッドに投げ出していた身体を起こしてジャスティンに向き直った。
「へぇ、ひよっ子が俺に意見しようってのか」
クスクスと笑ったヒックスは、もう本を投げようとはせずに起き上がると、ベッドサイドの冷蔵庫を覗き込んでエールの小瓶を取り出し無造作に栓を開けて呷ったが、顔を下ろし口を拭ったところでその手をジャスティンに押さえられて、ヒックスの手からエールを奪ったジャスティンは、それを後ろを見ずに背後に投げ捨てた。
音を立てて割れた瓶から溢れたエールが玄関扉を流れ落ちながら染みを作っていたが、呆れた口を開けていたヒックスが怒鳴り出すよりも先にジャスティンはヒックスの胸倉を掴んでいた。
「アンタはオハラ先生を、いやカメリアを一生守ると誓ったんじゃなかったのか」
怒りに震える蒼の瞳に射竦められて、ヒックスは眼を見開いた。
「フローラに聞いたのか」
黙ったままジャスティンの腕を振り払ったヒックスは、寝乱れたベッドに座り直してからポツリと言った。
「アンタは無理解な自分の親から彼女を必死で守ろうとした。両側精管結紮切除術を受けてまで彼女が謂れの無い罵詈雑言を浴びる事が無いように彼女を守った。だが、結局は彼女を守る事も出来ず、自分の決断は間違っていたんじゃないかとそう思ってるんだろ?」
淡々と話すジャスティンの真顔を下から見上げ、ヒックスはまた目を逸らした。
「お前に、お前みたいな若造に何が分かる」
「俺は確かにひよっ子でペーペーだけど、そんなひよっ子でもこれぐらいは分かる。『自分の決断した事を間違っていたと後悔する事は間違ってる』ってな」
言い放ったジャスティンの瞳は蒼い光を放って、明かりの乏しい薄暗い室内にはジャスティンの背後から揺らめいて立ち上がる深い緑のオーラの炎が、風の無い部屋で揺れ続けていた。
「その時にはそう生きるしかなかった自分がその時選んだこの道の、これから先を自分はどう生きていくのかと前を見る事が重要なんだという意味であって、仕方のない事だったと言い訳しろという意味じゃない。自分は、そうやって先だけを見据えて生き続けてきた人を知っている。その人も消せない暗く重い過去を背負っていたが、その過去に打ち負かされる事無く前を見て歩いている。今の自分に何が出来るのかを、積み上げてきた物が不安定でも頼りなくても、その足場で両足を踏ん張って自分に何が出来るのかを考えるのが、この先の未来を作っていく俺達のあるべき姿なんじゃないのか」
黒く重苦しい空気が澱んだ部屋の中で、オーラを背負って輝きを放っているジャスティンの姿は、何時もの屈託の無い若者の顔では無く、ヒックスは圧倒されながらも、これがコイツが【守護者】の【鍵】だと言われる由縁なのかと、瞳を逸らさないジャスティンの蒼の瞳を呆然と見返していた。
「そして、今アンタがすべきなのは、薄暗い部屋でエールを呷って愚痴を溢す事じゃない」
「俺に一体何をしろってんだ? 反省して酒を止めて真面目に働けってか?」
まだ皮肉交じりに薄笑いを浮かべているヒックスをジャスティンは顎で指して笑った。
「アンタが今すべきなのはカメリアと話し合う事だ。逃げずにな」
そう一言だけ言った後は黙って部屋を出ていったジャスティンの気配が消えて、静まり返った部屋の中に取り残されたヒックスは、今の言葉を頭の中で何度も反芻していた。




