第七章 第七話
ヘザーの大手術を無事に終えて、見守るだけだったジャスティンにも緊張の解れた明るい笑顔が零れて、今日も機嫌良さげに病棟内を見回る足取りも軽かった。
「よ、ウィル。おはよう」
三二五号室の窓際のベッド上で手におもちゃを持ってニコニコと笑っていた三歳児ウィリアム・シェリダンは、ジャスティンの顔を見ると一層口を開けて嬉しそうに声を上げて笑った。
「先生、おはようございます」
ウィリアムが入院すると必ず付きっ切りで付き添う母フローラの表情も穏やかで、ジャスティンに自分の持っているおもちゃを差し出して「あー」と一生懸命何かを話し掛けているウィリアムの顔を覗き込んで、ジャスティンは「俺にくれるのか?」と笑顔で話し掛けて小さな車のおもちゃを受け取った。
「へぇ、格好いいな。ウィル」
淡緑色の大きな瞳を見開いているウィリアムは、小さな拳を口に運んで足をパタパタさせながら上機嫌で笑っていた。
先月、ジャスティンの提案で聖システィーナの薬を服用する事になったウィリアムは、乳幼児に対する投薬である事と、治療効果を素早く観察するために今月半ばから此処国立中央病院に再び入院をしていた。
エドワード症候群を抱えるウィリアムは今まで病院暮らしの方が長いらしく、母フローラもそれに付き添っての生活が長く続いているようだったが、今は明るい兆しの見える未来に希望を抱いている様子で、元気に笑っている我が子にゆったりと目を細め笑っていた。
「血中酸素濃度は九十二%か」
小児科医局でウィリアムのカルテをパラパラと捲りながら、主任医師ヒックス・ストライドは甥への治療記録を目で追っていた。
「ええ。以前は八十九から九十でしたので、改善が見られます」
「そうか」
ヒックスはジャスティンに背を向けたままカルテを閉じた。
「で、ストライド先生。チューブを外す時期なんですけど」
呼吸用の鼻チューブが取れればウィリアムの行動範囲が広がり、外的刺激が彼にとっての新しい世界をまた開いてくれる事を期待しているジャスティンは、不機嫌そうな主任医師の背中に問い掛けた。
「まぁ、そうだな……九十四まで回復したらだな」
「了解しました」
ビシッと敬礼を返したジャスティンを振り返ってジロリと睨んだヒックスはそのまま何も言わずに医局を出て行ったが、その緑の瞳には何時もの光が感じられず、何処と無く覇気の感じられない後ろ姿を目で追って、小さなしこりの様な違和感をジャスティンは覚えていた。
ヒックスは元妻カメリア・オハラ医師がウィリアムの治療計画についてサポートするという事にも「そうか」と言っただけで肯定も否定もしなかった。入院中も日に一度は病室に顔を見せるが、簡単な回診だけで「後はウォレス先生に任せてるからな」と少し寂しげに言う兄にフローラも何も言わず、兄と前に兄嫁だった二人が同じ院内で顔を付き合せている事をフローラも少し案じているようで、回診に来るカメリアを少し哀しげに見ている表情にジャスティンは気付いていた。
「お二人は、仲が良かったんですか」
今はスヤスヤと眠っているウィリアムの天使の様な寝顔を覗き込んで、ジャスティンはふとフローラに訊ねた。
「え?」
問いの意味を聞き返したフローラに、ジャスティンはポリポリと額を指で掻いて言った。
「ストライド先生とオハラ先生です」
「え、ええ」
フローラは小さな我が子のクルクル巻いた茶色の髪を撫でながら困惑した顔で頷いた。
「兄嫁は、とても辛かっただろうと思います」
椅子に腰を下ろしたジャスティンに向かい、フローラ自身がその辛さを受け止めているかのような眉を寄せた表情になった。
「世界に『発動』が起こる前の少子化の時期でさえ、私の母は子供を産まない事で彼女を責め続けていました。私も兄も、今はそんな状況では無く、子供を授かるのは難しい状況なのだと何度も説明しましたが、頑迷な母には私達の言葉は届きませんでした」
フローラは我が子ウィリアムの顔を見つめ直した。
「そして、世界に『発動』が起こり人々の間に子供が産まれ始めると母の攻撃はより一層激しいものになりました。私はそれをとても見ていられませんでした」
もう妻が居るというのにヒックスに見合い写真を次々と持ち込み始めた母の暴走を、自分は止められなかったとフローラは俯いた。
「そんな日々が続いて二人は実家に絶縁を宣言してイングランドへと向かい、其処で二人穏やかに暮らしているのだろうと思っていたのですが、後に兄から離婚したと聞かされました」
黙って聞いていたジャスティンの脳裏には、カメリアの黒い瞳に何時も浮かんでいる悲哀の影がちらついていた。
「兄が子供を作らない選択をしたのも、彼女の事を守りたかったからだと思います」
そう言って顔を上げたフローラの瞳は、ヒックスと同じ哀しみに満ちた緑の瞳だった。
もし産まれてきた子がウィリアムの様に十八トリソミーだったら、きっと母は生涯カメリアを責め続けただろうとフローラは言った。
「私の時でさえ母は夫を責めました。原因は私にあると何度も説明しても母は納得しませんでした。自分の遺伝子にそんな欠陥があるという事を認めたくなかったのだと思います」
穏やかな寝息を立てているウィリアムは何も知らずに眠り続けていた。
「夫は自分が原因ではないと分かっていたのに母に頭を下げてくれましたが、全てが私の重荷となりました。全て私が悪いのだと」
しかし、遠い目をしていたフローラが次にジャスティンを見据えた時、其処には微かに明るい光が浮かんでいた。
「でも夫は、私の荷を自分が半分一緒に背負うと言ってくれました。私達は家族で、ウィリアムは私達の間のかけがえの無い『絆』なのだと」
微笑んだフローラは、以前より血色が良くなり体重も少し増えてふっくらとしてきた息子の頬をそっと撫でて、その笑みの浮かんだ横顔は、これ迄障害を乗り越えてきた、そしてこの先も三人で共に乗り越えていこうとする強さに溢れて、儚さを打ち消した母の強さをジャスティンはじっと見守っていた。




