第七章 第六話
十月に入って直ぐの土曜日の午後、右足の傷の経過を診るために国立中央病院を訪れたエドナは顔色も良く元気そうで、傷跡もこの分なら殆ど目立たないだろうと思われて、ジャスティンは巻かれていた包帯を絆創膏に張替えながらも笑みが零れていた。
「綺麗に治って来たな、エドナ」
「もう運動しても大丈夫かしら」
動かし易くなった足をブラブラとさせながら顔を上げたエドナに、「ああ、もう大丈夫だ」とジャスティンは太鼓判を押した。
「無理すんな、エドナ。こんなヤブ医者の言う事は当てにならないからな」
エドナの背後に立ちフンという鼻息と共に言い捨てて腕を組んでジャスティンを見下ろしているロドニーをムッとした顔で睨んで、ジャスティンは「ヤブで悪かったな」と剥れた顔でカルテに向かい直したが、あの時は見ていられないほど落ち込んでいたロドニーも元気そうで、エドナとは顔を見合わせて穏やかに笑っている表情が何かを乗り越えた強さを感じさせている事にジャスティンは内心で安堵していた。
「もう来なくてもいいんだろ?」
「ああ、ロドニーお前はな」
素っ気無いロドニーにニヤッと笑ってやり返したジャスティンはエドナに向き直った。
「再来月ぐらいにもう一度貯血しようか。今回一袋解凍しちゃったからな」
明るい笑顔で頷いたエドナとロドニーの、寄り添って帰って行く仲睦まじい後ろ姿を笑顔で見送って、ジャスティンはカルテに治癒と書き込んだ。
十月も十日を過ぎると、病院内には張り詰めた糸の様な緊張感が漂い、迫り来る大手術を前にして病院スタッフは皆急ぎ足で険しい顔をしていたが、当の本人ヘザーは何時もと変わらず、のんびりとしていて穏やかだった。
「今日のお昼ご飯のプラム、とっても美味しかったの」
明日からは禁食となり、明後日には大手術が控えているとは思えない程血色がいいヘザーは、長い金髪を少女の様に三つ編みにして垂らし、今日も仕事の合間にこっそりと覗きに来たジャスティンに美しい笑顔を見せた。
「お土産にしてヒースにケーキを作ってあげたいわ」
「それなら山程――」
自分がと言い掛けて財政状況が逼迫している自分の財布の中身を思い出したジャスティンは、慌てて視線を逸らして宙に泳がせたが、ヘザーはクスッと笑っただけで静かに微笑んでいた。
幾らヘザーの体調が万全だとは言っても、成功の確率は五分五分だと聞いているジャスティンは、そんな内心の不安は決して面には出さない様に殊更大袈裟な身振り手振りでヘザーを和ませていたが、そんなジャスティンの努力を吹き飛ばす勢いで扉を開けて飛び込んできた笑顔に、ヘザーの表情がパアッと一層明るくなった。
「ヒース!」
「マム!」
一目散にヘザーの枕元に駆けつけてきた息子ヒースを抱き止めて、頬にキスして両腕で抱き締めているヘザーの瞳には薄っすらと涙が浮かんでいて、息子が乱暴に開け放った扉の向こうで微笑んでいるネルソンにジャスティンはゆっくりと頷き返した。
手術用のキャップを頭に被り青緑色の術衣を着せられたヘザーはもうストレッチャーの上に横たわっていて、先程行った術前投薬の影響で少し呼吸が荒くなってはいるが、静かな顔で見下ろしているネルソンに微笑み掛けていた。
「じゃあ、行ってくるわ、貴方」
「ああ」
妻に不安を与えない為に穏やかに微笑んでいるネルソンだったが言葉少なで、妻の視界に入らない握られた拳は小さく震えていた。
「ヒース、帰ったら一杯遊びましょうね」
「マム、頑張ってね」
ずっとヘザーの手を握って離さないヒースも、まだ幼いながらも自分の母親がこれから戦いに行くのだという事を悟っているようで、泣きそうな顔で、それでも涙を溢さずに唇をギュッと噛んでいた。
重い鉄製の扉が眼前で閉じられ、手術中を示す赤いランプが点灯した扉の前で、ネルソンは顔を固く強張らせたまま、小さな息子の手を掴んで暫く動く事も出来なかった。
最低でも十時間掛かると言われた手術の間、ヒースは小児科病棟に併設されている小児用プレイルームで病棟の子供達と楽しそうに遊んでいた。
その子供達の輪の中にアンガスも混じっていて、アンガスが考案したという片足を大きく上げたり、急にしゃがみ込んで立ったりと奇妙な体操をしていたが、これは子供達の体幹のバランスや四肢の機能状態を診る為には有益だそうで、瞳をキラキラとさせてキャアキャアと笑いながら興じている子供達の表情は皆明るかった。
こっそりと覗き見しているジャスティンもその微笑ましさに笑みが浮かんだが、その場に居る筈のネルソンの姿が見えず、ひと気の無い廊下の左右を見回して不安げに眉を寄せた。
そのネルソンは一人で屋上に立っていた。故郷スコットランドのある北の方角を向き、頭を垂れてじっと動かないネルソンは両手を組み合わせて静かに祈りを捧げているようだった。
普段は頼れる広い背中が、今は哀しみに満ちて弱々しく見えて、背後に立っているジャスティンは声を掛ける事も出来ず、冷たさを増してきた北からの風の中、目を細めて立ち尽くしていた。
手術は十時間を越えても終わらなかった。ジャスティンの心中にも不安と焦りが浮かんで、ランプの消えない手術室の前でウロウロと行ったり来たりを繰り返していたが、緑の手術衣で全身を包んで帽子と大きなマスクの間に僅かに眦の下がった青の瞳が覗いている大男が「フゥ」と息をつきながら出てくると、ジャスティンは突進して詰め寄ろうとしてようやく思い留まって、肩で息をついてから「スティーブ」と声を掛けた。
「ジャスティン、ご家族を呼んできてくれるかな」
スティーブは眦を一層下げてニコニコと笑っていた。
「ありがとうございました、先生」
執刀医の心臓外科医に深々と頭を下げているネルソンは、大きく開かれた扉の中からまだ昏々と眠っているヘザーが運ばれて来ると、真っ白な顔の妻に向かって「ヘザー」と声を掛けた。
まだ麻酔は覚め切っておらず、薄く開いた瞳もぼんやりとはしていたが、ヘザーは口元に微かに笑みを浮かべていた。
「貴方、ただいま戻りました」
「ああ、おかえり、ヘザー」
妻の白い頬を静かに撫でながらICUへと向かうストレッチャーを見送ったネルソンは、大手術を成功の内に乗り切ったスタッフが充実した達成感の垣間見える笑顔で次々と手術室から出てくるのを、ずっと頭を下げ続けて見送っていた。
「副長殿、あ、いえ、アトキンズ大尉殿。良かったですね」
無事な成功に安堵し切ったジャスティンが緩んだ頬でネルソンに話し掛けたが、頭を下げたまま顔を上げようとはしないネルソンは返事もせず、振り返ったジャスティンの目の前で崩れる様に廊下の長椅子に座り込んだネルソンは、そのまま顔を覆って肩を震わせ続けていた。
顔を覆った指の隙間から僅かに漏れる嗚咽の声が、静けさを取り戻した廊下に微かに響いて、声を殺して泣き続けるネルソンの隣で棒立ちになってるジャスティンは、此方は盛大に目を真っ赤にして零れる涙を拭うのに必死だった。
「ありがとう、ウォレス一等准尉、いや、ウォレス先生」
暫くしてから顔を拭ってジャスティンを見上げたネルソンは晴れやかな顔で笑っていて、また言い間違いをシレッと訂正した後も、穏やかな笑みで空を見上げて静かに笑っていた。




