第七章 第四話
自分が今でも『ロリコン』と呼ばれている以外は波風の立たない穏やかな日が多忙ながらも続いている事に、実感が沸かないままにそんな事もありかと思い始めていたジャスティンは、今日も今日とて幸せそうな顔で昼食をモリモリ食べているアンガスを前にして、自分もやる気を出さねばと、ローストビーフの大きな一切れを口に押し込んだ。
「腎芽腫の子、退院だってな」
「ええ。後は経過観察で、暫く様子見ですね」
その子に『お兄ちゃん先生』と呼ばれてすっかりと懐かれているアンガスは寂しそうな素振りも見せずにニコニコと笑った。
「なんだ、寂しくないのかよ」
自分だったら折角懐いてくれた子が退院となると寂しい気持ちも湧いてくるのだが、ジャスティンにそう言われたアンガスは不思議そうな顔で目を丸くした。
「元気になっての退院なんだから、いい事じゃないですか、先輩」
そう言われればそうで、医者としてはそうあるべきなんだよなと思い知らされたジャスティンは照れ臭そうに頭を掻こうとして手を上げたが、食事中だった事を思い出して「まぁな」と、照れ隠しの相槌を打って誤魔化した。
「で、先輩、午後の外来なんですけど――」
早くも食べ終わったアンガスがナプキンで口を拭いながら顔を上げた時、職員食堂に設置されている院内アナウンスのスピーカーがブツッと音を立てて不吉な情報を齎した。
『緊急入電、緊急入電。救急搬送十分後。患者は十八歳女性。外傷。多量の出血有り。尚、患者は貯血リスト掲載者。受け入れ準備されたし』
一報にざわついた食堂内で、食べている途中のトレーにも構わず立ち上がったジャスティンの顔は固く強張っていた。
「……クソッ、エドナだ」
そのまま駆け出したジャスティンの後を追って、アンガスも走りながらジャスティンに声を掛けた。
「先輩! 僕薬品部に行ってABT受け取ってきますから、先輩はERへ!」
「おう、頼んだぞ!」
鉄階段を一段抜かしで駆け下りていくジャスティンの脳裏には、エドナの柔らかい笑顔が浮かんでいた。
「ジャスティン、ごめんね」
少し青褪めた顔をしてはいるものの、意識ははっきりとしているエドナは傍らに立つジャスティンを見上げて小さな声で呟いた。
「謝る事なんかないさ、エドナ。大した怪我でなくて良かったな」
安堵の笑みを浮かべたジャスティンは首を竦めて笑った。
階段を転げ落ちて右足を切ったエドナは出血はしてはいたものの輸血までは至らず、自己血を凍結保存してあった貯血を使用する事も無く手当てが終了した。骨折もみられず、数針傷を縫っただけで済んだ事にジャスティンも本当に安堵していた。
「しかし、慎重なエドナにしては随分と珍しいな。余所見でもしてたのか?」
ベッドに腰掛けてもう身体を起こしているエドナは、ちょっと目を泳がせてどう答えたものか逡巡している様子だったが口を噤んで問いには答えず、ER室の入口を振り返った。そのER室入口前の廊下では、長椅子に腰掛けてロドニーが項垂れて座り込んでいた。
学校から此処までエドナに付き添ってきたW校教授のビリーの話に因ると、エドナが転落した原因はロドニーにあるらしかった。
その時ロドニーやエドナを含む第五学年生は授業の合間で教室を移動中だったらしく、何時もの様に調子に乗ったロドニーが階段の手摺りに腰を掛けて滑り降りようとして、階段の途中を歩いていたエドナにロドニーの腕が当たって弾みでエドナは階段を転げ落ちたんだと流石のビリーも顔を顰めていた。
「真下にティアが居て、教科書も文房具も投げ捨ててエドナを受け止めてくれたから大事には至らなかったんだけどな」
小柄とは言え、階上から落ちてきた十八歳の女の子を受け止めて微動だにしなかったというティアの筋力に舌を巻いたジャスティンだったが、もう治療が終わって帰る支度を始めているエドナの近くにも寄らず、廊下で座り込んだまま顔を上げようとしないロドニーの意気消沈ぶりを振り返って、ビリーと二人並んで嘆息をついた。
「ロドニーもこれに懲りて、少しは大人しくなってくれると、逆に助かるんだがな」
苦笑いしたビリーに「ああ」と頷き返しはしたが、ジャスティンの心の中には苦い思いが沸々と湧き出していて、エドナに慰められても顔を上げないロドニーの、小さく見える姿を唇を噛んでずっと目で追っていた。
W校校長のベル・オルムステッドにも直々に叱責されて、授業に出席する以外は一週間寄宿舎内謹慎を命じられたロドニーは、口をへの字にしたまま授業でも寄宿舎でも誰とも口を利かなかった。
「まぁ、たまにはお灸を据えてやらないと」
ロドニーがそんな調子なので同室のザックは部屋に居辛いらしく、寄宿舎の談話室に勉強道具を持ち込んで皆と雑談を交わしながらも黙々と勉強していた。
「それはそうだけど、それにしても気落ちしすぎじゃない?」
「うんうん。ロドニーらしくないよね」
普段は呆気らかんとしているキッドも心配しているらしく、隣のアキが頷き返すと二人顔を見合わせて渋い顔をしていた。
「きっとそのうち元のロドニーに戻るわよ、ねっ?」
エドナを助けたティアはケラケラと笑いながら恋人コリンに話し掛けたが、腕を組んでじっと何かを考えていたコリンは一人離れた場所で本に目を落としているエドナの寂しげな顔を振り返った。
「ロドニーもだけど、きっとエドナも辛い筈だよ。本当なら医務室で手当てすれば済む程度の怪我だったのに、自分の血液型の所為で大騒ぎになったんだから」
コリンが推察した通り、自分が特異な血液型RH‐D‐であるが故に周りの皆に必要以上の負担を掛けている事を、エドナは内心で気に病んでいた。
今回はロドニーが原因だったが、次に自分が大怪我を負う危機に直面した時、きっとロドニーは己の身を呈して自分を守ろうとするだろうと思ったエドナは、自分の存在がロドニーの重荷になっている事を初めて噛み締めて、翳りの見える未来に不安を抱えて独りで考え続けていた。
*1……ABT。Autologous Blood Transfusionの略。自己血輸血。エドナとアンガスは共にRH‐D‐のため、其々の血液を冷凍保存している。




