第六章 第四話
「ああ、まだ話してなかったっけ?」
のんびりとした口調で屈託無くニコニコ笑っている小児科医局長ハワード・ライアン医師は、医局長室に足を運んだジャスティンを前にしても何時ものマイペースだった。
「いや、でも自分はまだ研修生ですし」
「それはもう担当患者を持つ医師の言葉じゃないねぇ」
お茶を啜りながらポツリと言ったライアン医師の言葉に、図星を突かれたジャスティンは口を噤んで黙り込んだ。
以前よりも髪が薄くなった気がする白髪の老医師は立ち上がろうとして「よっこいしょ」と掛け声を掛け、皺の深い手で机の傍らに置いてあった杖を手にして歩き始めた。
「ライアン先生、それ」
以前は見掛けなかったその杖を見てジャスティンが口を開いたが、振り返ったライアン医師は「ああ、これね」と笑いながら言った。
「僕、先週まで胃癌の治療を受けてたんでねぇ」
「え?」
元々小柄なライアン医師の丸めた背中がより一層小さく見えて、ジャスティンは言葉も無く立ち尽くしていた。
ライアン医師は、自分が医者で良かったと屈託無い笑顔で笑った。
「お陰で初期症状に早くに気付いたからね。外科のアボット先生は腕が立つし、開腹もせず腹腔鏡でちょちょいとね」
のんびり廊下を歩くライアン医師の後を追って、ジャスティンは「はぁ」と頼りない返事を返した。
「でも、まだ治療中なのでは」
「ああ。今は二階の外科に居るんだけど、自分の患者を診る時には三階に上がってきてるんだよ。それにもうそろそろ退院だしねぇ。尤も、退院しても院内に居るんだけどね」
そう言って笑ったライアン医師は書類を手にしたまま付いてくるジャスティンを一階の事務室まで誘った。
「まぁ、検診とは言え疾病の兆候を見逃さずにチェックをするいい機会だし、BVIの子供達には発達不良が今でも見受けられるので、よくよく診る事が大事だね」
医局長室に戻ったライアン医師は、書類の最後に自分のサインをして「はい」とジャスティンに手渡した。
「それにしても先生が闘病中とは知りませんでした」
寂しげなジャスティンを見上げて、ライアン医師は破顔の笑みの顔から微笑みだけの顔に変わった。
「まぁ小児科は暫くてんてこ舞いだったから仕方ないねぇ」
自分がその一因だった事を思い返しているのか、ライアン医師は遠い目をした。
ジャスティンは自分がどれだけ状況を見ていないのか、その自分の稚拙さを突きつけられたような気がして、己を恥じていた。
時折病棟内でライアン医師の姿を見かけていたとはいえ、外来にも回診にも医局長の姿が無い事を不思議にも思っていなかった自分には、まだまだ学ばなければならない事が山の様にあると、そんな自分に学びの機会を与えてくれている事に感謝して、老医師に頭を下げた。
「それにしても、世界が新しくなったって本当なんですかね」
折角三階に来てるのだからと病室を回る事にしたライアン医師に付き添い、入院患者を見回りながらジャスティンはボソッと呟いた。
「実際には、今でも病気の子供は減らないじゃないですか」
昨日産まれた乳児の一人に重篤な心疾患があるのが発覚し、今は新生児集中治療室に入っている赤子を思って、ジャスティンは唇を噛んだ。
「それはそうだねぇ」
暢気な老医師の返事にもジャスティンはムッとした顔になった。
「折角これから世界は良くなるんなら、その力とやらで病気の子供なんか居なくなるようにしてくれたっていいのに。何の為の力なんですかね」
腸閉塞を起こして先週手術を受けたばかりの女の子が、まだ何も食べられず青い顔して眠っているのを見回った後、ジャスティンは己の中に積もった澱を吐き出す様に言葉を吐いた。
「ジャスティン、それ、君の婚約者には話してないよね?」
歩く足の止まったライアン医師がゆっくりと振り返り、何時もは穏和な微笑で隠されていて窺い知れない老医師の瞳に鋭い光が浮かんでいて、その瞳が澄んだ蒼色だという事にジャスティンは初めて気が付いた。
「ジャスティン。人は何故病を負い、そして老いて死んでいくのか考えた事はあるかい」
自分よりも遥かに背が低い老医師の背中は今は真っ直ぐ伸ばされていて、自分は見下ろしている筈なのに何故か見上げているような気持ちでジャスティンは黙って首を振った。
「世界に疾病も無く誰も傷を負わず、日照りや洪水、寒風や豪雪も無く毎日が穏やかな春の日の様な世界は、夢の様でもあるし天国の様でもあるけれど、けれど、そんな世界で、人は前を向いて歩いていけるんだろうかねぇ」
ゆっくりとまた歩き始めたライアン医師は杖をコツコツと小さく鳴らしていた。
「昔は、癌も死亡率の高い疾病だった。ところが、近代では医療が進んで余程の進行度で無ければ殆どが助かる病となった」
語り続けるライアン医師の背中を見ながら、でも現在はまたその医療は少し後退してしまったとジャスティンは唇を噛み締めた。
「籤を引き当てた人間にとってはそれはとても不運な事だが、でもその自分が、今度は次に籤を引き当てた人に希望を与える存在にも成れる」
エレベーターホールまでゆっくりした足取りで歩いてきた老医師は、皺が寄って強張った指でボタンを押した。
「その希望を齎すのが我々医師だ。それは我々が己を賭して成さねばならない使命であり、そして自然現象にはそれに立ち向かう人が居て、己の弱さに負けてしまった人にはそれを救う人が居て、誰もが自分の果たすべき役割を持ってこの世界を作り上げている、僕はそう思うんだ。決してたった一人の小さな少女が負わなければならないものではないと」
振り返らずに訥々と語ったライアン医師は、エレベーターが到着した音を聞いてようやくジャスティンを振り返り、何時もの穏和な笑みを浮かべて笑った。
「きっと君の婚約者は、それを良く分かっていると思うよ」
「……了解しました!」
再び戦場に赴く老医師を敬礼で見送り、怪訝な顔付きの看護師が眉を顰めて後ろを通り過ぎるのも気にせずに、ジャスティンは暫く立ち尽くしたまま敬礼を返し続けていた。




