第六章 第三話
夏を迎えたロンドンの日差しは、眼下を流れるテムズ川に地上に降り注いだ星々の煌きを輝かせていたが、日陰を抜ける風は涼しく、その風を気持ち良さそうに受けて、隣で少し俯き加減で立っているアンガスをカレンは振り返った。
「どうして、あんな事したの?」
「別に……」
遅い昼休みを取ったアンガスを屋上へ誘ったカレンの顔をまともに見れずに、アンガスは俯いたままだった。
「別に私は貴方を責めてるわけじゃないのよ。でもジャスティンがこの一件で困ってるのは、貴方も分かってるわよね?」
「それは、まぁ」
ポリポリと頭を掻いたアンガスは、頬の蒸れるシップもポリポリと掻いた。
「貴方はオハラ先生と恋人同士で、だからジャスティンはゲイでも無いしショタコンでも無い事を公表したらどうかしら」
目を見開いて顔を上げたアンガスの目の前には、カレンの真顔があった。
「知ってたんですか」
院内の噂話にも上っておらず、当の本人カメリア・オハラ医師も口を噤んでいる状態で、院内ではジャスティン以外は誰もこの事を知らないだろうと思っていたアンガスは、真顔で真っ直ぐ前を見て自分を見ていないカレンの横顔を呆然と見上げていた。
「気付いたのは私だけよ。他の誰も、医師達も看護師達も気付いてないから安心して」
少しだけ微笑んだカレンに顔を向けられて、アンガスは目を逸らした。
「もしかして、先輩に聞いたんですか」
秘密の隠蔽には絶対の自信を持っていたアンガスには、それしか思い浮かばなかった。
「違うわよ。貴方、ジャスティンがそんな簡単に人の秘密を気軽に口外すると思ってたの?」
カレンの口調に僅かに怒りの感情を感じてアンガスは首を振った。
「ねぇ、オハラ先生が何故貴方を誘ったのか、その理由分かる?」
もう一度カレンを見上げたアンガスの緑の瞳には、揺れるカレンの影が映っていた。
「私ね、緑の瞳の子供が欲しいの」
とある日の酒宴の席で、珍しく泥酔したオハラ先生はそうポツリとカレンに言ったそうだった。
「緑の瞳……」
そっと自分の右目に手をやったアンガスは、その緑色に輝く自分の瞳を見開いていた。
「そうよ、ストライド先生の瞳の色、緑色よ」
其処にはかつて夫婦だった二人の哀しみに満ちた過去が秘められていた。
「そうだったんですね」
屋上のフェンスに寄り掛かり、アンガスは風に吹かれながら眼下のテムズ川を見下ろして小さく呟いた。
「貴方がオハラ先生に望む通りの緑の瞳の子を授けられるんなら、私は何も反対はしないわ。例え其処に愛が無かったとしても」
カレンもアンガスと並んでテムズ川を見下ろしながら、川を下る小船の航跡を目で追って淡々と言った。
「でも私としては、其処には愛があって欲しいの」
そう呟いたカレンの言葉にアンガスは答えられなかった。実際に自分はカメリアの事を愛している訳ではなく、それだけでは無く、これまでに誰かを愛した事も一度も無かったからだ。
「それとも貴方、本気でジャスティンを愛してるの? だったら、それは辛い思いをするだけよ。彼はたった一人の女性しか見てないから」
自分自身もその想いを抱えていて、それでも凛として立っているカレンの背筋の伸びた姿を見上げて、アンガスは黙ったままずっとカレンの横顔を見つめていた。
『ロリコンでショタコン』という二重の渾名を背負う事となったジャスティンは、もう腹を括っていた。
――もうロリコンで構わねぇ。俺にはビアンカだけだ。
誰に笑われて詰られ嘲られようと、自分が愛してるのはビアンカ唯一人だけだと堂々と宣言しようと決めたジャスティンは、鼻息も荒くナースステーションへと戻ってきたが、きゃあきゃあと姦しい笑い声が響くナースステーションを見て「え?」と足が止まった。
「あら、ジャスティン。お帰りなさい」
ジャスティンに気付いて嬉しそうに手を振っているのはその当の本人ビアンカだった。
「何でお前が此処に居るんだよ!」
狼狽して顔を真っ赤にして叫ぶジャスティンをフッと鼻で笑ったビアンカは、「あのねぇ」と薄目でジャスティンを睨んだ。
「今日は去年の傷の定期診断の日でしょ? 忘れてたの?」
昨秋左腹部に裂傷を負ったビアンカは傷の経過も良く安定してはいたが、それでも傷や内臓機能に影響が無いか定期的に診断を受けていて、今日の外来予定にビアンカが入っていたという事を今朝の騒動ですっかり忘れていたジャスティンはボリボリと頭を掻いた。
「まぁ、担当はストライド先生だから安心してたけど」
「悪かったな」
大人びた口調のビアンカとは対照的に、剥れて口を窄めて悪態をついたジャスティンを新人看護師がクスクスと笑った。
「本当に、ビアンカが年上で先生が子供みたい」
「でしょ」
どうやら看護師にその話をしていた最中だったらしく、得意げにフフンと笑ったビアンカは憮然としているジャスティンを見上げて「で、先生」と目を細めて笑った。
「W校入学予定児童の健康診断の事なんだけど」
「へ?」
ビアンカは肩掛けにしていたカーキ色の雑嚢の中から一通の書類を取り出すと、「はい」と無造作にジャスティンに差し出した。
「マクニール先生からの預かり物なの。必要事項を記入してサインして持ってきてね」
「って、俺が?」
自分を指差して目を丸くしてキョトンとしているジャスティンを見上げて、ビアンカはやれやれと首を振った。
「今回はライアン先生じゃなくて、ウォレス先生が担当って聞いたけど? 宜しくね、先生」
「は?」
まだ事情を飲み込めてないジャスティンは、書類を手にしたまま、腰に手を当てて威張って見上げているビアンカを呆然と見下ろしていた。




