第六章 第一話
もしも『喜怒哀楽の分かり易い男選手権』が存在していたのなら、絶対にこの男は上位三位以内には入ってメダリストになるだろうと、上機嫌に揺れる背中を冷めた目線で見ながら、小児科病棟看護師のカレン・ホッグスは密かにため息をついた。
その背中の主ジャスティン・ウォレスは、七月に入った今現在でもまだ有頂天が続いていた。
六月の最後の日曜日に尊敬する班長殿アレックス・ザイア少佐の結婚式に参列したジャスティンは、当の本人達が大遅刻するという前代未聞の大騒動の中で、遅れて始まった式に無事参列出来ていた。
先に始まった宴会の所為で既に泥酔した者が後を立たず、流石に酔っ払いは足を踏み入れる事はならぬと、厳格な修道院院長代理のマクニール尼僧に大多数が門前払いを食らい、式に参列出来たのはまだ未成年の子供達や子持ちの母親達、浴びるほど飲んだ酒を何処に隠したのか、平然としているスコットランドAAS大隊のS班の軍人達だけで、給仕代わりに駆けずり回されていたジャスティンは、かえってそれが良かったと胸を撫で下ろした。
兄コンラッドに白い腕を預けて白いベールを俯き加減に垂らしたその姿は、ジャスティンが昔初めてマリアを目にした時よりも遥かに美しかった。
階級章の色が違うだけで嘗て自分が在籍したAASの軍の礼装と殆ど変わらない姿の班長殿も、礼帽の下の黒い瞳が優しく微笑んでいて、妹を託すコンラッドが小声で何かを囁いて班長殿の腕を叩き、それに小さく応える二人の男の姿もジャスティンには眩しく見えた。
ジャスティンの婚約者ビアンカ・ワイズも、ベールガールとして島の仲間ジェマと二人マリアに付き従い、浅黒い肌に映える純白のドレス姿が何時か此処で自分が執り行う筈のビアンカとの結婚式を連想させて、其処まで思い出したところでジャスティンはまた口元を緩めて堪えきれない思い出し笑いを浮かべた。
「あの……」
そのジャスティンの背後から新人看護師の一人が先程から何度も声を掛けていたのだが、遠慮がちな小声は夢見心地で妄想の最中にあるジャスティンには届いてはいないようで、困り切った顔をしている看護師の後ろからポンポンと肩を叩いたカレンが戸惑う新人の耳元で何かをボソボソと囁いた。
途端に目をまん丸にして「そんな事言っていいんですか」と小声でカレンに聞き直した新人看護師にカレンは無言で頷き、浮かれているジャスティンの背中を顎で指した。
「あの……『ロリコン』先生。お話が」
さっきと余り変わらない小声だったのに、機嫌良さそうに揺れていたジャスティンの動きがパタリと止まり、バッと振り返ったその顔は真っ赤になって怒りの感情が容易く読み取れて、呆れたカレンはやっぱりこの男が金メダルだわとフンと鼻で笑った。
「俺はロリコンじゃねぇ!」
怒鳴られた新人看護師は目をギュッと閉じて首を竦め怯えた表情になったが、傍らのカレンは視線に蔑を籠めてジャスティンを睨み返した。
「此処で看護師が声を掛けてるのに振り向きもしない医者が、何を偉そうに言ってんの。此処で声を掛けられるからには大事な用件に決まってるでしょ」
またしても正論でぶった斬られたジャスティンは、頬を赤く染めたままムスッとして黙り込んだ。
入院患者の投薬について確認したいというその新人看護師に指示を出し終え「怒鳴って済まなかったな」とジャスティンが詫びると、まだうら若いその子は頬をボッと赤く染めて「いいえ」と恥ずかしそうに頭を下げて院内薬局へとパタパタと走って行った。
「やっぱり若い子には親切よねぇ」
皮肉たっぷりのカレンの憎まれ口を聞き流し、また電子カルテの前に不機嫌露に座り直したジャスティンは背中を向けたままカレンにやり返した。
「此処に居ても、大事な用件でも無い他人の悪口を言ってくる奴も居るんでな」
一矢報いたジャスティンは背後を気にせず入院患者のチェックを再開したが、自分の背後から漂う殺気を軍人時代に培った精神力の成せる技か敏感に感じ取って額に浮かび始めた油汗が滲み、余計な事を言ったとジャスティンは後悔したが、その殺気が遠のいた感じがしてジャスティンが振り返った時には、ナースステーションにはもうカレンの姿は無かった。
困惑してボリボリと頭を掻いたジャスティンは、これで当分の間カレンは口を利いてくれないだろうなとは思ったが、でもまだ何も知らない新人にわざわざ『ロリコン』という自分の渾名を教えなくてもいいじゃないかと、独り口の中でブツブツと愚痴を溢しながらジャスティンは立ち上がった。
西側の廊下の突当たりには病棟用のシャワールームがあり、その傍らに併設されているランドリールームで、カレンはシーツを乱暴にゴシゴシと洗いながら、一人で怒っていた。
「何よ、何よ」
その怒りがジャスティンに向けられているのか、それとも自分に向けられているのか、カレンは自分自身で良く分かっていなかった。
確かに医師とは言ってもまだ若く、研修生であるジャスティンとは年齢も近くて自分が友達感覚で接してしまっているのはカレンも重々分かっていたし、そんな間柄をジャスティンも嫌っているわけではなく、あの軽口も何時ものジャスティンの軽口だとは分かってはいたが、振り返らない背中からは拒絶された哀しみだけが募って、もうとっくのとうに過ぎ去ったと思っていた自分の感情が揺さぶられている事にカレンは怒っていた。
「未練がましいわね、ほんと」
口では『ロリコン』とからかいながらも、実際にはジャスティンはロリコンでは無い事をもうカレンは分かっていた。
自分の大切なたった一人の女性が、【守護者】という他の誰もが持たない重荷を背負いながらも真っ直ぐに育ってくれる事を願って見守っているジャスティンの蒼の瞳が穏やかに笑っているのを思い浮かべたカレンは、患者が溢した食べ物の染みが粗方消えたシーツを広げて、力を籠めて固く絞った。
「よし!」
己に気合いを籠めて力強く頷いたカレンは、小さく鼻歌を歌いながら次々と洗濯物をランドリーに放り込んでいった。




