第五章 第六話
暦が六月に入ってから一週間の時が過ぎ、今年の二月以来だろうか、久しぶりに顔を合わせた親友ビリー・ローグの第一声は、
「何だ、お前。筋肉が落ちてるぞ。訓練サボってんだろ」
という悪辣なものだった。
「お前も、俺みたいに一週間で百四十七時間働いてみろ」
真顔で言い返したジャスティンの、目の下に皺が寄り寝不足から来る不機嫌が顔面に色濃く張り付いた戦場さながらの形相を間近に突きつけられたビリーは、顔を引いて「ああ……済まん」と珍しく殊勝に謝った。
ジャスティンが主治医を務める三歳児ウィリアム・シェリダンが先週退院し、その後の経過を診るためにロンドン西部にあるW校へと足を運んだジャスティンは、その帰りに親友ビリーの元を訪ねたのだった。
「へぇ、お前がシェリダン教授のお子さんの主治医なのか」
何時もの寄宿舎で、談話室のソファに腰を下ろして向かい合ったビリーとジャスティンは、以前に見掛けたベティでは無く、今度は老齢で丸顔のにこやかな婦人が運んできたお茶をゆっくり味わっていたが、彼女は新任の舎監の妻なのだとビリーが紹介した。
「そう言えば彼女はどうなったんだ?」
あの時は明るい人柄のいい女性に見えていたベティが、ロシアのスリーパーエージェントの一人としてビリーの娘メアリー=アンを攫うという暴挙に出た事が昨日の様に思い出されたジャスティンは、遠慮がちに小声で訊ねた。
「ああ。デボンポート郊外にある海軍の収容所で収監中だそうだ。出来るだけ穏便な処分を俺も願ってはいるんだが」
娘を攫われた怒りはもうビリーからは消えているようで、彼女も道を見失ったロシアによる犠牲者の一人なのだと思えているのか、少し曇った顔でカップのお茶を啜った。
「そうだよなぁ」
ジャスティンも重い口調で口篭った。
「で、お前ちゃんと準備してるんだろうな?」
急に話を変えたビリーの問いの意味が分からずに、ジャスティンは「は?」と聞き返した。
「おいおい。結婚式なんだぞ? Tシャツとジーンズで参列できるわけなかろうが」
「結婚式? って誰が?」
呆れて首を振っているビリーの顔を怪訝な顔で覗き込んで真顔で訊ねるジャスティンに、ビリーは目を丸くした。
「誰って班長殿に決まってるだろが」
「えええええええ」
何も知らされていなかったジャスティンはその場で立ち上がって絶叫した。
今月最後の日曜日に、聖システィーナ修道院で班長殿とマリア・バーグマン伍長との結婚式が執り行われる予定だと今初めて聞いたジャスティンは地団駄を踏んで悔しがった。
「何で俺には教えてくれないんだよ!」
「それって、お前には来て欲しくないって事なんじゃないか?」
クスクスと笑っているビリーの胸倉を掴んで、本気で怒っているジャスティンの殺気を感じたビリーは、慌てて両手と首をブンブンと振って「冗談だ! 冗談に決まってるだろ」と叫んだ。
とは言え、ビリーに指摘された通り、ちゃんとした結婚式に参列するための衣装なんぞジャスティンは一着も持っていなかった。
まだ高校生だった頃の服は今の筋肉の付いた身体に到底合う筈も無く、高校を卒業すると海軍士官学校へ入り、そしてその海軍からAASへと異動したジャスティンとって式典で着る服と言えば軍の礼装であり、その軍を去った今となってはジャスティンに残されているのは普段の軽い服だけで、現実に突き付けられた難題を抱えてジャスティンは途方に暮れた。
それなら貸してくれと頼んだビリーにも、素っ気無く「お前と俺とじゃ体型が違うだろ」とあっさりと断られ、自分の周りを見回しても確かに自分に近しい体型の人間は誰も居ないと思い知らされたジャスティンは、小児科医局のテーブルに両手を広げて突っ伏して「はぁ」とため息をついていた。
「先輩、大変そうですねぇ」
すっかり快復して元通りの食欲でモリモリ食べるアンガスを前にして、食欲の無いジャスティンは大好物のステーキキドニーパイをフォークで突付いているだけで、時折密かに手を伸ばしたアンガスが端からパイを奪っているのにも気付かずに「ああ」とやるせなさそうに力無く息をついた。
「僕のを、ってのも無理ですしねぇ」
小柄で看護師用の術衣しか身体に合わないアンガスの着る物など指先だって入んねぇよと思ったジャスティンは、もうこの際此処は開き直ってTシャツとジーンズが俺の正装だと言い張るかと虚ろな瞳を上げたところで、またジャスティンのパイを奪ったアンガスが何気なく言った。
「同じ軍人さんなら、体型合いそうですけどねぇ」
「それが駄目なんだよ。アイツの持ってるのは全部特注らしくて」
お洒落が趣味のビリーがスーツの既製品を着る筈も無く、全てがビリーの体型に合わせているというスーツは確かに若干肩幅の違うジャスティンには合わず、今にも張り裂けそうな服を見てビリーが「お前早く脱げ!」と叫んだぐらいで、今も十分に張り詰めた二の腕の筋肉を掴んで気落ちしているジャスティンに、アンガスは目を丸くしてキョトンとして言った。
「他の軍人さんは居ないんですか? 前の職場の人とか」
「……そうか! そうだ!」
名案を思いついたジャスティンは瞳を輝かせて立ち上がり、握り締めたフォークを手にして感動に打ち震えていたが、その隙を見てジャスティンの残りのパイを全部口に放り込んだアンガスも、満足そうな顔でうんうんと頷いていた。
「まぁ、構わないが。どうせ俺は軍の礼装だしな」
今も手元に残っている携帯電話で国連のエドガー・リードに連絡を取ったジャスティンは、スコットランド軍第九十九AAS大隊に所属するランス・ウィルソン少尉から承諾の返事を貰って、明るさを取り戻した晴れやかな笑顔で、電話を握り締めたまま深々と頭を下げて「ありがとうございます!」と叫んだ。
前にエディンバラへ遊びに行った時にもランスからタキシードを借りた経験があるジャスティンは、自分と同じ様に鍛え上げられたランスの衣装なら着られる事を思い出したのだった。
これで着る衣装の目処も付いたし、何より尊敬する班長殿やS班の仲間と再会出来る事が嬉しくて、ジャスティンは有頂天だった。
「ふーん。結婚式ねぇ」
一時のどんよりした雰囲気から一転して、絶好調の明るい笑顔を見せているジャスティンのご機嫌な後ろ姿を見ながら、病棟看護師カレンは余り興味が無さそうな素っ気無い声を返した。
「おうよ。これまで物凄くご苦労をされたお二人だからな。盛大にお祝いしなくちゃな」
そんなカレンの気だるげな気配にも無頓着で生き生きとしているジャスティンの耳元で、カレンはボソッと呟いた。
「で、貴方の結婚式は?」
「へ?」
「後四年あるとは言っても、実際には彼女は後二年で婚姻可能年齢に達するんでしょ? のんびりしてていいの?」
「そんな事言ったって」
ビアンカには親権者は居ないし十六歳って約束したしと口の中でモゴモゴと呟いているジャスティンに、カレンは悪戯な目を細めてクスッと笑った。
「W校に上がればもう思春期よねぇ。彼女の周りに他の男が居ないわけでもなさそうだし、不安よねぇ」
ビクッと身体に震えが来たジャスティンが恐る恐るに背後を振り返ると、両腕を組んで仁王立ちしているカレンが顔に不敵な笑みを浮かべてジャスティンを威圧的に見下ろしていた。
「最近放ったらかしなんじゃないの? 彼女の事」
それはそうだが患者が第一だと説教したのはお前だろと責めたいジャスティンだったが、いや待てよと思い直した。
もしかしたら、これはビアンカがカレンの意識を操作して自分の気持ちを言わさせているのかもしれないと思いゴクリと息を飲んだが、いや幾ら何でも【守護者】でもそんな事はと、モンモンとする頭を抱え込んでヒクヒクと顔を強張らせた。




