第五章 第五話
「へぇ、もう担当患者を貰ったとか凄いじゃないですか」
初めて自分が主治医を務める事になって浮き足だって医局の中をウロウロ歩き回っているジャスティンの背中を目で追って、暢気に構えているアンガスは特に嫉妬している風でもなさそうで、目の前のPCを手際よく操作しながら、次々と何かをプリントアウトしていた。
「って、何こんなに沢山出してんだよ」
プリンターの上には印刷された用紙が山積みになっていて、その紙の束を無造作に掴んでアンガスの目の前に「ほら」と突き出したジャスティンに、アンガスはクスッと笑って言った。
「それ全部十八トリソミーに関する論文ですよ?」
分厚い紙の束を見下ろしてジャスティンはあんぐりと口を開けた。
「それにしても貴重な症例ですよね。しかも男児でありながら三歳まで生存とか。僕にもデータを見せて下さいね」
この患者の裏にある深刻な裏話を知らないアンガスが暢気なのも仕方がないとは思ってはみても、やるせなさの残るジャスティンは「ああ」と短く答えただけだった。
「まぁ、そりゃ仕方が無いわね」
今日の昼飯の同伴は何時ものアンガスでは無く、目の前で猛然と食事をパクついているカレンの勢いに圧倒されて、ジャスティンは自分の食欲が落ちていくのを内心でひしひしと感じながらも、午後の診療を思えば自分も負けてはいられないと、何と競っているのかは分からないが同じペースで猛然と平らげていた。
「でも流石にこの症例なら医師団を結成してアンガスもメンバーに入れたほうがいいとは思うけど」
「あのなぁ、医師団って。ウチに何人小児科が居ると思ってるんだ」
現在はどう数えても四人しか居ないメンバーを指で数えて片手で余る事に気付いてカレンはケタケタと笑った。
「ああ、そりゃそうね。ライアン先生は最近はちょっとお年を召されたし、ストライド先生はともかく、残りの二人は研修生だもんね」
「悪かったな」
剥れたジャスティンは白身魚フライの大きな一切れを口に放り込んでから口をヘの字にした。
「って言うか、担当の患者を抱えたんなら、余計に遊びに行ってる時間なんか無くなるわよ」
ニヤリと笑ったカレンが何を言いたいのか察したジャスティンは、「フン」と鼻で息をして甘い香りのするコーンパンを千切って口を大きく開けた。
「今んとこ容態は安定してるからな。今週には一度退院をさせて、暫く様子見だ。W校なら、ビリーと直ぐに連絡取れるしな」
患者のウィリアム・シェリダンの現在の居住地がW校というのもジャスティンにとって好都合だった。ジャスティンの相方と呼べる無二の親友ビリー・ローグがW校の外国語教授であり、双方を繋ぐ携帯電話を持っている事も緊急対応がしやすいからだ。
「いいなぁ、携帯電話。早く復活しないかしら」
デザートのチェリーパイを電光石火で平らげたカレンは、最後のパンの残りを口に押し込んでようやく追いついたジャスティンの顔を下から覗き込んだ。
「ねぇ、復活したらアドレス交換する?」
「しねぇよ! どうせ呼び出ししかしねぇだろうが!」
顔を真っ赤にしたジャスティンのしどろもどろな顔を見上げて、カレンはケタケタと面白そうに笑い転げた。
「クソッ! 阿呆カレンめ」
他人からおちょくられるのは慣れているジャスティンであっても相手が女性だとどうも分が悪いようで、ボリボリと頭を掻きながら小児科医局へ戻って来たが、「よう、アンガス。先に飯悪かったな」と声を掛けるなり、そのアンガスが淡々とした顔で振り返った。
「先輩、オハラ先生が呼んでましたよ」
「へ?」
思い当たる節の無いジャスティンは、俺何かしたかと不安渦巻く狼狽した顔を泳がせたが、それを伝えたアンガスは特段何も感じていないようだった。
もしも自分が、自分の彼女が他の男を呼んでいると言われたら、絶対にあんな安穏とした顔はしていられないだろうと、平然としているアンガスの態度を訝しんだり羨んだりしながら四階にある内科病棟の医局へ足を運んだジャスティンは、またしてもカンファレン室に通された。
昨年の秋のW校検診の後で此処で誘われて以降、顔を合わせた時に会釈するか、時折回診に付き合ってくれた時に事務的な会話をするだけで、殆どオハラ医師とは口を利いていないジャスティンは、今度は何が目的なのだろうと、バクバクする心臓の音を無駄だとは思いながら胸に手を置いて静めようとしている時に部屋の扉が開き、その相手カメリア・オハラ医師が入ってきた。
「ウォレス先生、お呼び立てして申し訳ありません」
昨年とは打って変わって丁寧な物腰で穏やかなカメリアの様子に、ジャスティンは立ち上がって深々と頭を下げていた。
彼女の目的は、ジャスティンが担当する事になったウィリアム・シェリダンに関する事であった。
「無論、この患者に関しては私達内科医に出来る事は限られているのは解っているの。それでも、私も遺伝子に関する研究を若干だけれどもしてきたし、協力出来る事があればと」
伏目がちな黒の瞳には陰鬱な影が浮かび、搾り出す声も悲しげなカメリアの気持ちはジャスティンにも良く分かった。
彼女も、言わばウィリアムの身内の一人だったからだ。
前夫の甥という関係は現在では他人の様なものなのだが、きっと今でもヒックスを愛しているカメリアの中では家族のように思えるウィリアムの事を案じるのも無理は無いとジャスティンは思った。
「分かりました。オハラ先生」
その気持ちを無碍にする気はジャスティンにはサラサラ無かった。
「自分はまだ研修生ですし、ストライド先生は『自分は身内だから』とおっしゃっておられたので、どうかご指導下さい」
「ありがとう、ウォレス先生」
ホッとした表情になったカメリアは、派手な衣装と化粧をしていたあの頃よりもずっと美しいとジャスティンは思った。
きっとストライド先生も反対はしないでしょうとカメリアを安心させる言葉を掛けたジャスティンに何度も頭を下げたカメリアは、次回の回診には立ち会う事を約束して、少し頬を染めて嬉しそうに戻って行った。
切なさを胸に抱えてジャスティンが小児科医局へと戻ると、またアンガスがプリンターをオーバーヒートさせるつもりなのか珍しく興奮した頬を赤く染めて眼を見開いてPCに張り付いていて、床にまで散らばった紙を拾い集めながら呆れたジャスティンは「おい」と声を掛けた。
「もう論文は山程――」
そう言い掛けて拾った紙を覗き込んだジャスティンは、書かれている内容が十八トリソミーに関する物では無い事に気づいて、新品のおもちゃを貰って興奮冷めやらぬ仔犬の如くに瞳を輝かせているアンガスを振り返った。
「これって」
「腎芽腫に関する論文です。僕もストライド先生と一緒に、この間手術を受けた子を担当する事になって」
ブンブンと振る短い尻尾が見えるような顔でアンガスは笑った。
研修生二人其々に担当患者を持たせて、研鑽を積ませるつもりのヒックスの意図は分かったが、舞い上がって地に足が着いていない様子のアンガスの姿はきっと先程までの自分と同じだろうと思ったジャスティンは、苦笑を溢しながらも膨大な紙の山に埋もれかけているアンガスの顔を真上から覗き込んだ。
「お前も忘れるなよ」
「え?」
顔を綻ばせハッハッと息も荒い仔犬はキョトンとした顔になった。
「俺達は、自分の目の前にある苦しんでいる『命』を救うんだ」
「それは、言われなくても」
分かってると言い掛けたアンガスの口を、伸ばした右手で塞いでジャスティンは目をまん丸にしているアンガスに尚も顔を近づけた。
「それは病気を治すという意味じゃない。人の、その人の『命』を救うんだ」
口を押さえ込まれたアンガスがモゴモゴと何か言い掛けているのは分かったが、ジャスティンはそれでも言葉を続けた。
「病気を診断し治療法を確定し治癒を目指す、それが医者の仕事なのは当たり前だ。だがそれだけじゃない。その子を自分の胸の中に抱え込んで、その子の温もりを感じて、その命の重さを噛み締めるところから俺達の仕事は始まる」
ジャスティンには、自分がスコットランドでこれまで歩いてきた道が途切れずに今でも繋がっているんだと思えた。
「だから先ずその子自身を見ろ。診るんじゃなくて見ろ。感じろ。その子が一番何を望んでいるのか、それを知ってから治療が始まるんだ」
蒼の瞳に力を籠めて間近でアンガスの緑の瞳を覗き込み、自分の影が映り込んだアンガスの瞳の中でユラユラと揺らめいているのを見ながら、ジャスティンはゆっくりとアンガスの口から手を離した。
「人として人に向き合え、アンガス」
自分自身もこうしてアンガスと向き合っている自分を感じながら、ジャスティンが離した手でアンガスの金髪をグリグリと撫でると、頬を染めて口を少し開けていたアンガスは、「やっぱり」と小さく呟いた。
「やっぱり、先輩には抱いて欲しいかも」
ボッと頬を染めて瞳を潤ませたアンガスの顔を見て、撫でていた手を止めたジャスティンはそのままその手でアンガスの頭を掴んでテーブルの上に叩き付けていた。




