第五章 第四話
五月の終わりには病状の回復したアンガスも小児科医局に戻ってきて、まだ新人ながらも新しい看護師二人を病棟に迎えた小児科は一時の修羅場状態からようやく解放されて少し落ち着きを取り戻してはいたが、それは周りだけの話であってジャスティンは相変らず病院内を走っていた。
「あ、先輩、ご苦労様です」
医局でのんびりお茶を飲んで寛いでいるアンガスを横目で睨んで、呼び出されたER室から戻ってきたジャスティンはアンガスの手の中からカップを奪い取って残りのお茶を一気に喉に流し込んだ。
「あん、先輩。もう大丈夫だとは思いますけど、流行性耳下腺炎は伝染性なんでうつったら」
突然の事に目を丸くしたアンガスは少し心配そうに眉を顰めたが、
「心配ねぇよ。俺は子供の頃にもう罹ってっから」
フンと鼻息も荒く言い放ってカップを突き返したジャスティンを、アンガスは目をパチクリさせた後悪戯そうに笑った。
「でも、再感染例もあるようですよ?」
その言葉にギクッとなったジャスティンをアンガスはクスクスと笑いながら、すっかり腫れの引いた両頬を手で包んで肘をついて、
「先輩が精巣炎で無精子症になったら困りますもんね。ビアンカを他の誰かに取られちゃうかも。それとも僕が貰っちゃおうかなぁ」
と、顔を引き攣らせているジャスティンを悪戯っぽく見上げた。
その場でアンガスの頭を引っ叩いて、ぶん剥れた顔で小児科病棟のナースステーションに顔を出したジャスティンは、まだブツブツ文句を呟きながら電子カルテの前に腰を下ろして入院患者の今朝の回診の様子をチェックしていたが、一人の患者のカルテに目を止めて「おい」と後ろを振り返った。
「この患者、新患か」
昨日までは無かった真新しいデータを差したジャスティンを振り返った新人看護師の一人が、「はい、先生」と素直に応じた。
「今日の早朝にご両親が付き添って来られて、そのまま入院となりました」
先生と言われ慣れていないジャスティンはそれだけで身体の芯がこそばゆい気持ちになったが、この看護師が病院内の噂話に毒されず、自分の事を『ロリコン』と呼ばないように密かに心の中で願いながらも、表情は一端の医者らしく険しい顔を装って「そうか」と尤もらしく呟いた。
その新患の病室は廊下の一番奥にある三二五号室で、其処は前にビアンカが仮病で運ばれた時の部屋だった。
今度も部屋に患者番号札は一つしか下げられておらず、一番窓側に置かれたベッドの脇には、患者の母親と思しき女性が椅子に腰を下ろして真っ白な布団の掛けられたベッドに手を置いて、我が子を宥めるように小さくポンポンと叩いていた。
「失礼します。少し拝見しますね」
その女性に向かって穏やかな声を掛けたジャスティンを、少し眦の下がった緑の瞳で見上げた女性は寂しげに頷いた。
患者はウィリアム・シェリダンというまだ三歳の男の子だった。夏風邪を引いたらしいその子は、昨晩から熱発していたという体は今はもう熱も下がってきたらしく頬の赤みも消えて白い頬の小さな唇を尖らせてスヤスヤと寝入っていた。
「ああ。熱はもう下がってますね」
耳式体温計で素早く熱を測って確認したジャスティンの言葉に、母親も安堵しているらしく目を細めて頷いた。
フワフワの茶色の髪はクルクル巻いていて真ん丸い顔は愛らしく、長い睫を伏せている姿はまるで絵画に出てくる天使の様であったが、一般的な子供よりも少し顔の下側に付いている耳と、目を凝らして見ないと判らない程のごく薄い傷ではあったが、口蓋に薄っすらと残った微かな傷跡が彼の病名を物語っていた。
「でも安全のためにもう少し様子を見ましょうか」
「はい、先生。宜しくお願い致します」
涼やかな声のこの子の母、フローラ・シェリダンは立ち上がって丁寧にジャスティンに頭を下げた。
この患者のそもそもの病名は『エドワード症候群』であった。
遺伝子に起因するこの症候群は十八トリソミーと呼ばれ、小児が罹る遺伝子病の中でも特に重い病であった。
「しかし、男児が三歳まで生存しているのは珍しいですね」
小児科医局で患者のカルテを前にしてジャスティンがこの特異な症例について熱心にメモに書き留めているのを振り返ろうともせず、主任医師ヒックス・ストライドは素っ気無く「ああ」と言った。
「へぇ、父親はW校の教授ですか」
「そうらしいな。国文学教授が辞任したそうで後任としてこの五月からW校で教鞭を取っているらしい」
別の患者のカルテを目で追いながらも何処か心あらずな雰囲気のヒックスを振り返って、ジャスティンはテーブルに肘を付いたまま何気なく口にした。
「カルテには無いですけど、良くご存知ですね」
ヒックスは手にしていたカルテをバタンと閉じ、ジャスティンを振り返らないまま立ち上がった。
「……フローラは俺の妹だからな」
「へ?」
肘を付いていた手が頬からズルッと滑り落ち、そのまま固まったジャスティンは、虚空を見上げているヒックスの背中から目が離せなかった。
ランディ・シェリダンとフローラの夫妻は、北ウェールズにあるディー川の畔ディーサイドの街で代用教員をしながら暮らしていたが、以前イングランドの大学で国文学の講師をしていた経験を買われて今回W校の教授として招聘されたのだと言う。
「ディーサイドは俺の故郷でな」
ひと気の無い屋上で、ヒックスは手にした小瓶をグビリと呷った。
ウィリアムの症候群を齎した染色体異常は、元々ストライド家が持っていたものだったとヒックスは遠い目をして言った。
「俺も結婚をして直ぐに受けた染色体検査で、産まれてくる子供が十八トリソミーになる確率が高いと言われた。俺のお袋は家を継ぐ男児を欲しがっていたが、俺はお袋にそれを告げられなかった」
北ウェールズの中でも名門の元貴族だったというストライド家に一日も早く跡継ぎをと切望する母親らからの圧力は日に日に増していったが、ヒックスは自身が抱えた重荷を誰に話す事も無く、一人で決断したのだと、もう一度小瓶の中身を呷った。
「それで俺は両側精管結紮切除術を受けたんだ。妻にも極秘でな」
ずっと何も言えないまま立ち尽くしているジャスティンの銀髪を、風が攫って吹き過ぎていった。
何も知らない両親は子供を産まないカメリアを責め続けたのだとヒックスは俯き加減の頬を少し赤く染めて言った。
「それで俺達はウェールズを離れて此処へ来た。そして俺はアイツに真実を伝えて詫びて、そして……別れた」
どうやら中身は何時もの麦茶では無かったらしく、小瓶の中身のエールはもう空になったのか、ヒックスは無造作に小瓶をポケットに仕舞い込んだ。
「けれど妹は、どうしても産みたいとウィリアムを産んだ。だが、やはり彼は十八トリソミーだった」
フローラの瞳に浮かんでいた寂しさの理由を知り、ジャスティンは頭を垂れたまま何も言えずに立ち尽くしていた。
「済みませんでした」
ようやく言葉を絞り出し頭を下げて詫びるジャスティンを、少し座った目で見返したヒックスは、「何でお前が謝るんだ」と言葉尻に不快を示して言い返した。
「でも」
「お前が詫びる必要は何処にも無い。ましてや、お前が落ち込んで項垂れる必要も何処にも無い」
きっぱり言い切ったヒックスの顔は少し酔いが浮かんではいたが、その瞳は何時もの光が浮かんだ医師の顔であった。
「これは俺が抱える問題だ。落ち込むのも解決させるのも俺自身の、俺だけの責任だ。お前が背負い込む必要は無い」
「だったら」
じゃ何で俺にこの話をしたんですかと言い掛けたジャスティンは、それを言ってはいけない気がして口を噤んだ。
「患者、特に小児患者と向き合うには、その置かれた環境や家族、様々な要因を拾い集めて、多くを語らない患者と正面からぶつからなきゃならない。これも要因の一つだからな」
「でも、担当医はストライド先生かライアン先生では」
戸惑うジャスティンを正面から見据えたヒックスの顔は、もう何時もの有能な医師ヒックス・ストライドの顔だった。
「この患者はお前が担当するんだ、ジャスティン」
初めてヒックスがジャスティンをひよっ子とは呼ばなかった。




