第五章 第三話
カレンに訥々と諭されて、時代が新しい局面を迎えて自分の進む道はこれしかないのかと思いつつ、寝癖がピンピンと跳ねた銀髪で院内を駆け回るジャスティンであったが、頭の中は病院の事だけというわけでもなく、勿論の事婚約者ビアンカ・ワイズの事を忘れる筈も無かった。
ところが聖システィーナからロンドンに戻ってからはビアンカには一度も会えていなかった。
まだ小学生であるビアンカは七月終わり迄に全ての学業を終えて、この九月からはロンドン西部にある中等教育学校W校へと進学する予定だったので、混乱の時期に遅れがちだった学業優先で毎日遅くまで勉強をしているらしく、時折病院を訪れる関係者達から「元気だよ」とだけしか聞いていなかったが、それでも世界が平穏を取り戻した今、ビアンカの周辺は落ち着いてるのだろうとジャスティンは安堵していた。
あの混乱の最中に聖システィーナの【守護者】の移譲が行われて、前【守護者】クリス・エバンスから今はもうビアンカが【守護者】となっていた。
世界を俯瞰する絶大な力を誇る聖システィーナ地区の【守護者】がまだ幼いビアンカへと移った事をジャスティンは案じていたが、当のビアンカはケロッとしていた。
「あら、もう当分は何も起こらないから大丈夫よ」
ジャスティンが此処ロンドンへと戻る前、一時のお別れを告げに行ったビアンカは何時もの子供らしい屈託の無い表情だった。
「でも、お前【守護者】になったんだし」
不安げなジャスティンを見上げて、ビアンカはウフッと笑った。
「今度は此処が不可侵領域にはなったけど、前ほど厳しいものでもないの。結界も張る必要は無いし、そんな事を意識しないで普通に暮らしていればいいのよ?」
そう言われてみれば、修道院の中でもイブの結界の力を感じる事も無かったし、困惑したジャスティンはボリボリと頭を掻いた。
「そうそう。八月になったら、入学前健康診断があるんですって。勿論ジャスティンが診てくれるわよね?」
悪戯っぽく見上げるビアンカの蒼の大きな瞳には期待が籠められていて、前は自分が診るのは嫌だと拒否した癖にと、ジャスティンは「ああ」と苦笑いを溢した。
ビアンカが【守護者】になったのと同時に自分もビアンカの番人の一人となったジャスティンだったが、その実感は全く沸いていなかった。
番人とは言っても自分は結界を張る事も出来ないし、守護の光を発する事も出来ないし、以前は【守護者】と番人は遠く離れていても会話を交わす事が出来たらしいが、今はその機能は失われているらしく、つまり以前と全く変わらない自分にも戸惑っていた。
――俺って本当に【鍵】なんかな。
破滅の瀬戸際から平穏を取り戻した世界は晴れ渡ったこの青空の様に穏やかで、緊迫感のないまん丸い雲がゆっくり流れて行く空を見上げてジャスティンはフゥとため息をついた。
「あら、お珍しいわね。ジャスティンが回診?」
特別室の住人ソフィー・フェアフィールドは、南側向きの窓辺に置かれたロッキングチェアーに腰を下ろして、その青い空を眺めている最中だったが、入ってきたジャスティンを振り返ってクスッと笑った。
「俺は小児科だ。回診の筈ないだろ」
ブスッと答えたジャスティンは機嫌が悪かった。
永らくこの特別室で治療を受けていたソフィーも、来月には退院する見通しだった。
ゆっくりとではあるが文字も書けるようになった両腕の回復は目覚しく、子宮を除く内臓機能も順調に回復しているのが報告されていたが、取り除かれた子宮は復活はせず、両足も僅かに立っている事は出来るようにはなったが、歩行時には松葉杖でも短い距離しか歩けず、今後も機能回復を目指すが当分は車椅子での生活になるだろうが、それでもソフィーは十分だと思っているらしかった。
「それで、聖システィーナの番人さんが何の用かしら」
光の宿る瞳を細めて笑ったソフィーには、ジャスティンが此処へ来た目的がもう解っているようだった。
「そうね。もう世界には、身を守るべき敵は今のところ存在してはいないわね」
自分の存在意義を問うたジャスティンにソフィーは穏やかな笑みを浮かべて瞳を閉じた。
「今のところは?」
「ええ。今のところは、よ。新しい世界には恐らく危機的な『発動』はもう起こらないわ。これまで人類が己の足を引っ張っていた燻る闇も一旦は取り除かれて、暫くは平穏な日々が続く筈よ。でも何時かはきっと、また軌道修正しなければならない日が来るでしょうね」
「だって、もう闇は班長殿が」
言い掛けたジャスティンをソフィーが瞳を開いて目で制した。
「人は、誰でもがその内に弱さを抱えていて、悩み苦しむものだという事を貴方はもう分かっている筈だけれど」
それは、ソフィーの言う通りだとジャスティンも思った。自分もこうして見えない先に不安を持って悩んでいるからこそ此処へ来たわけで、それを指摘されるとジャスティンは口を噤んだ。
「でもね、ジャスティン。そう悲観するものでもないのよ、きっと」
ところがソフィーは俯いたジャスティンに悪戯っぽく笑い掛けた。
「先が見えないなら見えないままでいいのよ。見る必要が無いから見えないだけなのだから。それよりも今ある自分を見つめる事こそが今の人類に求められている事なの」
「今ある自分……」
「そう。例えば、今の自分に四年の年月が過ぎて、その自分の隣にウェディングドレス姿のビアンカが立っているのを想像してみて」
今から四年後は自分は三十三歳でビアンカが十六歳でとブツブツ口の中で呟いたジャスティンは、今よりも老けた顔で髪は相変らずあっちこっちに跳ねてしょぼくれた顔をしている自分が天女の様なビアンカの隣に精気も覇気も無く棒立ちしているのを頭の中に思い浮かべて、剥れた眉を顰めて一層不機嫌顔になった。
「まぁ、頑張ってね。ジャスティン」
そのジャスティンの容姿をそっくりそのまま見通したらしい稀代の才媛は、悪戯な笑みを浮かべて素っ気無かった。
「そりゃまぁソフィー嬢の言う通りだな」
三階の小児科医局に剥れた顔で戻ってきたジャスティンを、主任医師のヒックス・ストライドも鼻で笑った。
「今のまんまじゃ、ビアンカ嬢には釣り合わないってこった」
ケタケタと笑い転げたヒックスの言葉にジャスティンは益々憮然とした顔になった。
「でも、どうしたって年の差十六歳ですからね。誰がなってもそうなりますよ」
どっかと椅子に座り込んで剥れているジャスティンを振り返って、ヒックスは「それはどうかな」と目を細めた。
「お前の周りには、例え中年でも格好良くて光ってる男が大勢いるだろうに」
言われたジャスティンはガバッと起き直って目を丸くした。
ジャスティンがその言葉に一番先に思い起こしたのは、尊敬する班長殿、AAS大隊S班のアレックス・ザイア大尉だった。
ザイア大尉は、現在は確か四十一歳で中年も中年の筈であったが、精悍な顔付きと引き締まった肉体と、それ以上に滲み出る誠実さと任務時の覇気溢れる野性的な男気が、もう除隊した今でも尊敬しているジャスティンにとっては憧れの、目標とする存在であった。
その班長殿の隣にこれまた精悍なコンラッド・アデス海軍少佐を並べて、そしてM十六を構える姿がAAS一だと謳われているS班副長ネルソン・アトキンズ中尉も加えて一枚の絵の様に美しい三人の男の姿を思い浮かべたジャスティンは、その理想とは程遠い今の自分に「はぁ~」とため息をついた。
「誰もが何もせず格好いい中年になるわけじゃねぇよ」
麦茶入りの小瓶をグビリと飲んだヒックスがジャスティンを振り返った。
「それまでに自分を磨けって事だ」
そう言ったヒックス自身も、見た目はボサボサ髪に無精髭で草臥れたケーシー型の白衣もところどころ染みが浮かんで、外見は到底格好いいとは言えなかったが、時折眠そうな顔で目をトロンとさせているジャスティンとは違って、深い緑の瞳には何時も覚醒を示す鋭い光が宿っているのを思い出し、その瞳を見ているだけで安心を覚えさせるヒックスの顔を見上げ、ジャスティンは少し口を開けて何も言えずに黙り込んだ。




