第五章 第一話
五月の爽やかな風が吹き抜けるロンドンの街には、色とりどりの春服を身に纏った乙女達が闊歩し、テムズ川の川べりを恋人と腕を組んで漫ろ歩くには格好の季節を迎えていたが、一足先に灼熱の夏を迎えている此処ロンドン国立中央病院内では噴き出す汗を拭う暇も無く、今日も今日とてカルテを抱えてジャスティン・ウォレスはひた走っていた。
二月の半ばから始まった一連の世界危機が収束を見て、婚約者であるビアンカ・ワイズの護衛の為に聖システィーナに出向いていたジャスティンが、その任務から解放されて病院へと戻ってきたのは五月に暦が変わった後の事だった。
二ヵ月半の遅れを取り戻すべく研修に勉学に励むジャスティンを、遠慮も配慮も無く何時も通りにこき使っているのは小児科主任医師ヒックス・ストライドで、今日の外来患者のカルテを抱えて一階のカルテ室から三階の小児科医局まで駆け戻って来たジャスティンを「遅ぇよ、ひよっ子!」と怒鳴りつけるのも毎日の日課の様な物であった。
「そんで、このカルテ片付けろ」
医局の中央に置かれた大テーブルの上に無造作に積み上げられていたのは入院患者のカルテの山で、またカルテを抱えて走るのかとジャスティンが頬をひくひくとさせて棒立ちしているのをチラリと横目で見て、ヒックスは無精髭が目立つ不機嫌な顔で眉を寄せた。
「おら、さっさとしろ。人手が足りねぇんだよ。もう外来が始まるだろが」
「了解しました!」
半泣きの顔でジャスティンが敬礼を返すと、相変らずヒックスはそれには何も返さずにカルテを抱えてさっさと出て行った。
「クソッ、回診のカルテ管理は看護師の仕事だろが」
崩れ落ちそうになっていたカルテの山を並べ直して、ブツブツと文句を垂れているジャスティンの背後から漂う異様な殺気に気付いてジャスティンが振り返った時にはもう遅かった。
「アンタね! 病棟も忙しいのよ! 人手が足りないのよ!」
二月に見た時よりも隈の色が濃くなっている病棟看護師カレン・ホッグスが鬼気迫る形相で腰の引けているジャスティンを睨み上げ、返す言葉も無いジャスティンは力無く「はは」と苦笑いするだけで、「フン」と鼻息をついたカレンの怒りのオーラを背負った後ろ姿に、ジャスティンは首を竦めてため息をついた。
小児科医局がまるで戦場の如く修羅場を迎えている理由は、病棟担当の看護師が二名、出産の為の産休に入ったのに補充も無い事と、ジャスティンの同期、医学研修生のアンガス・エイドリアンが不在だからだった。
「今頃流行性耳下腺炎(おたふく風邪)とか……本当に子供かよ」
抱え上げたカルテを胸に抱いてジャスティンはまた嘆息をついた。
「あ~先輩、ありがとうございますぅ」
午後二時を過ぎてからようやく昼飯にありつけたジャスティンはその足で独身宿舎へと戻り、熱の所為で潤んだ瞳でパンパンに膨らんだ頬に湿布を貼り付けているアンガスを見舞った。
「飯は……食えないだろうなぁ」
一応職員食堂でサンドイッチを作って貰って持って来てはみたが、アンガスは涙目でフルフルと首を振って、尤も両頬が腫れ上がったままの顔では小刻みに震えている様にしか見えず、すっかり怯えた仔犬になっているアンガスを見下ろしてジャスティンは「はぁ」とまたため息をついた。
「点滴はまだ持ちそうだな。三時頃になったら取替に来てやるから」
この病気は主に子供の疾病ではあるが成人でも罹患する事も有り、特に成人では重症化しやすい事もあって油断は出来ない病で、その例に漏れず高熱の続いているアンガスが重症化しないように注意を払うのもジャスティンの仕事とされて、「これも立派な実践だ」と高笑いしたヒックスの言葉を思い出して、ジャスティンはまたまたため息をついた。
「おい、嘔吐や羞明は無いだろうな」
「はい~。頂部硬直もありましぇん」
譫言みたいな頼りない返事であったが、ジャスティンが髄膜炎を想定して問うているのを解っていてのアンガスからの返事を聞いて、少し安堵の息をついたジャスティンだったが、「あ」とアンガスは何か思い出したのか、益々潤んだ瞳でジャスティンを見上げた。
「僕、もしかしたら精巣炎かも……」
「へ?」
「先輩、診てくれますぅ?」
頬を薔薇色に染め唇を尖らせているアンガスが本当に病気なのかそれともこれは悪魔の誘惑なのか、ヒクヒク顔を引き攣らせたままのジャスティンは、この場から逃げ出したい気持ちで一杯であった。
*1……羞明:強い光を眼に受けた時に不快感や痛みを感じる事。髄膜炎の症状の一種。髄膜炎以外の多様な疾病の症状でもある。
*2……頂部硬直:頭の後ろに手をやって持ち上げると通常胸につくが、強張って首が曲がらず胸まで持ち上がる様な場合には、直ぐにお医者様へ行きましょう。




