第四章 第六話
ポーツマスの東端にある英国陸軍特殊部隊、第二十二SAS連隊本部では重要拠点の警護に当たる兵士達が慌しく出入りしていて、こんなに忙しいのは『発動』の日以来だなと、今は後方支援部隊に籍を移しているニックス・ベック一等准尉も日々の業務に追われていた。
備品管理部に所属するニックスは、自走砲からボールペン一本に至るまで、軍が使用する膨大な備品の入手・管理・支給等を行っていたが、特に管理の厳重な銃器と銃弾については此処最近の不穏な気配により、より一層厳しい管理を行うよう通達があったばかりであった。
実戦部隊の時とは勝手が違って最初は不慣れだったニックスも、今は長年の此処の主の様な顔でキビキビと動いているのは、愛する二人の子供のためであった。
日中は、軍宿舎で他の軍人の妻達に交替で面倒を見て貰っている二人の子供の、夕方迎えに行くニックスに向ける弾ける様な笑顔を見る度に、ニックスにはこみ上げる愛情と共に、苦い思いが何時も頭を掠めていた。
――ローズと一緒だったら、どんなに幸せだっただろう。
ロシアのスリーパーエージェントとして任務を命じられ、そして自ら逝った妻のその苦悩が今のニックスには痛い程分かっていた。
彼女も、このまま任務が下りないまま過ごせたらと願っていたに違いないと、日々の暮らしを思い起こす度にニックスは感じていた。
春の陽だまりのような四人での暮らしは、突然の荒れ狂う北風によって霞みが消えるように奪われて行ってしまったと、ニックスは一人備品庫の中で在庫の確認をしながら、消えない思いを反芻していた。
葬儀の日、ローズの棺に何度も駆け寄ろうとしていた幼い息子の肩を押さえた日を思い出して、ニックスはギリッと唇を噛んだ。
――あんな思いは二度とさせてたまるか。
戸棚の扉を拳でガンと叩いたニックスは、その音に反応したのか、備品庫の奥で小さく鳴った靴音に気付いて顔を上げた。
「ベック一等准尉、久しぶりだな」
その音を確かめに行ったニックスの前に居たのは、懐かしい上官、A部隊の副長バート・ミルズ大尉であった。
「はっ。ご無沙汰しております」
思わず敬礼を返したニックスに、ミルズ大尉は苦笑を溢して首を竦めた。
「M十六用の銃弾の補充を申請してあったんだが届くのが遅くてな。大至急必要だったんで、備品部から鍵を借りて入室させて貰った。連絡しなくて済まなかったな」
「いえ。こちらこそお手間を掛けさせてしまい、申し訳ありません。至急確認の上――」
「ああ、いい。申請書は、備品部のレイノルズ中佐殿の証印を既に貰ってある。備品部も忙しいだろうから、余り気にするな」
鷹揚に笑ったミルズ大尉に、ニックスは済まなさそうに苦笑いを浮かべて頭を下げた。
実際、全員が出払っているSASでは必要備品の申請書が山積みになっていて、此処最近定時には家に帰れないニックスは、夕食も終わって眠ってしまった子供達を引き取りに行く毎日であった。
この難事を乗り越えたら子供達とピクニックにでも行こうかと、ニックスはミルズ大尉の去った備品庫を見回して、異常が無いのを確認して鍵を閉めた。
備品部に戻ったニックスの前の席で、若い後輩がボリボリと頭を掻きながら「おかしいなぁ」と呟いているのを見咎めて、ニックスは腰を下ろすなり声を掛けた。
「どうした」
「何回計算してもM十六用の銃弾の在庫が合わないんですよ」
困惑した表情の若い兵士の顔を見てニックスは眉を寄せた。
銃弾の在庫が合わないというのは備品部にとって大問題であった。今は一般人で銃器を所持している者は皆無だったが、それが何らかの犯罪に使われる様な事があってはならないし、今の状況を考えると例え小さな事であっても見過ごしてはならないのだというのは、ニックスにも良く分かっていた。
「申請書類をよく確認したか? ミルズ大尉殿が申請された分が、もう決裁に上がっている筈だが」
慌てて上官の席の決裁済み書類を漁った若い兵士は該当の書類を見つけたようだったが、それでも困惑した表情は変わらなかった。
「これを入れても数が合いません」
ニックスは浮かんだ疑念が頭を駆け巡るのを止められなかった。
「……徹底的に調査しろ。全ての申請書を洗い直せ。後、備品庫への入室申請もだ」
「了解しました」
敬礼を返した若い兵士を見ながら、今日は長い夜になりそうだと自分を待っている幼子の顔が浮かんだニックスだったが、その笑顔を振り払って険しい顔で頷いた。
――嵐はもう間もなくだわ。
薄闇の中に沈んだ部屋の暗さに慣れた目で、ビアンカはベッドに横たわり、頬を撫でる冷たい夜気を感じながら、暖かい布団の下で首元から下げた十字架を握り締めていた。
次代の【守護者】としての自分の力が、この地にひたひたと押し寄せている、肌を粟立たせる黒々とした澱の様な執念を敏感に感じ取っていた。
あの『発動』で、世界は生まれ変わった筈だったと、ビアンカは空に向けた蒼の瞳を細めた。
――その為に【核】と【鍵】は命を賭して世界を救ったのに。
あの夏の日に島で見たニンフェアとハドリーの澄んだ明るい瞳の笑顔を思い出し、ビアンカは十字架を握る手に力を籠めた。
スコットランド軍のS班が、ベラルーシの防衛の為に旅立ったと先程マクニール院長代理に聞かされたビアンカは、かつては此処の院長だったマリアの慈愛に満ちた笑みを思い浮かべて、その笑顔が滲んで消えそうになるのを堪えながら、涙の浮かんだ蒼の瞳を細めその涙を溢すまいとじっと堪えた。
――院長先生。世界を、世界を守って。
ビアンカが自然に放っていた守護の光は、淡いピンク色を帯びてゆっくりと部屋を光で満たし、そして部屋からも零れ出て、夜更けの聖システィーナ地区へと広がっていった。
シド・ヘインズの農場の片隅に以前オルムステッド夫妻が住んでいた小さな小屋があり、今は其処へと居を移したジャスティンは、闇の中で気配を感じて目を覚ました。
柔らかい光の帯がユラユラと揺れて、哀しみを誘うように静かに流れていくのを感じながら、ジャスティンはその光の中にビアンカの悲哀を感じて思わず起き直った。
――ビアンカが泣いてる。
世界がまた自滅へと転落しようとしている間際で、その崖の縁で悲嘆に暮れて顔を覆っているビアンカのか細い泣き声を聞きながら、ジャスティンは背後に迫りつつある黒い霧に向かい、天に拳を突き上げて全身で吼えた。
「お前ら、いい加減、目を覚ましやがれ!」
ジャスティンの悲痛な叫びが闇に木霊し、その叫びに応える声も無くやがて静寂が訪れた中、まだ荒い息をついて両肩を上下させているジャスティンは、東の彼方に居るレオの姿を求めて泣きそうな顔で振り返った。
※ダークバージョンは此処まで。この後英国で起こる事は『闇色のLeopard』の方に掲載されます。次章からはまたのんびり雰囲気に戻る予定です。




