第四章 第四話
ジャスティンには「なんとかなるだろ」と答えたビリーだったが、不安が無いわけではなかった。
此処W校には子供達八名と教職員、そしてその家族を含め数十名の人間が広い校内に散らばって生活しており、その中には自分の妻テレサと愛娘メアリー=アンも含まれていた。
その彼らを自分と、交代で常駐している僅かなSAS部隊員とで守りきらなければならないと思うと、確かに番人の不在は懸念材料であった。
しかしと、片手に握り締めたエメラルドグリーンの携帯をじっと見下ろしてビリーは思った。
AASのS班時代に常日頃副長のネルソン・アトキンズ中尉から掛けられていた言葉を、ビリーは頭の中で反芻するように繰り返し思い出していた。
――今は戦う相手は常軌を逸した超越した力を持つ存在じゃない。只の人間だ。
人の力で起こせる事には限界があり、異質な力を持たない自分達でも出来る事はある筈だと言っていたネルソンの言葉を噛み締めて、ビリーもその通りだと思った。
その己の限界を他人より上へ、上へと高めてきた自分にも出来る事は必ずある筈だと、隣室で娘とスヤスヤ眠っているだろうテレサを想い、闇の深くなった窓辺から柔らかい光に包まれた部屋を振り返って、もう一度手の中の携帯を握り締めた。
「ビリー、寝ないの?」
唐突にその部屋の扉が開きテレサが眠そうな顔で目を擦りながら顔を覗かせて声を掛けてきて、ビリーは眉間に寄った縦皺を瞬時に消して「ああ、もう寝るよ」と笑顔を見せた。
「誰かと話してたの?」
精神を病んでまだ回復途上のテレサは普段は屈託のない少女の様であったが、時折覗かせる鋭い指摘は、本来の彼女が持つ聡明さを表していて、内心の不安を気取られないようにビリーは首を竦めて明るく笑ってみせた。
「ああ、電話を貰っただろ? だからジャスティンと話してたんだ」
「ジャスティン、元気だった? 最近遊びに来ないわよね?」
小首を傾げたテレサにゆっくりと歩み寄りながら、ビリーは何気ない顔でテレサの頬を撫でた。
「ああ、今は聖システィーナに居るからな。其処はロンドンからはちょっと遠いんだ。一歳児検診の頃には国立中央病院に戻ってる筈だから、その時にまたメアリー=アンを診てもらおうか」
「うん!」
満面の笑みで答えたテレサの濁りも翳りも窺えない眩しい笑顔を静かに眺めて、ビリーは内心を押し殺しながら口元で微笑んだ。
教え子の一人ロドニー・ワイズから、時間のある時に特殊部隊の基礎訓練を教えて欲しいと頼み込まれたのは今年に入って直ぐの事であった。
「SASのベック一等准尉殿に来て貰ってたんだけど、忙しくなるらしくて暫く来れないって言われちゃってさ」
相変らずちょっと油断するとタメ口になるロドニーに、ビリーはフゥと息をついて、一旦腹に力を籠めて口を結び直した。
「Mr.ロドニー・ワイズ……」
「あー、なので、ローグ教授、自分にご教授願えませんでしょうか」
慌てて言い直したロドニーに嘆息をつき、ビリーは小さく笑った。
「今も週二回、校長から空手の稽古を受けているんだろ? それで十分――」
「じゃないです、ローグ教授」
ビリーを遮った真顔のロドニーの顔には険しさが浮かんでいた。
「俺は、エドナや島の仲間、コリンやティアを守りたい。ビアンカみたいに結界を張るとか出来ない俺には、こうやって自分を鍛えるしかないんです」
瞬きもしない蒼の瞳を真っ直ぐにぶつけてくるロドニーから深い海の色のオーラが立ち昇っているのを感じて、ビリーは驚きと共にそれを受け止めていた。
ロドニーはまだ十六歳という年齢だが、天性の運動神経のなせる技か、過酷な訓練にも歯を食いしばってついてきた。
特に俊敏さと走るスピードの速さは教えているビリーを上回っていて、さぞかし良い兵士になるだろうとは思ったが、彼には生まれ育った英領ヴァージン諸島に帰って島を再興するという夢があり、その為に必要な事には何にでも挑戦したいと、貪欲なまでに執念を見せている少年の、その期待に応えたいという思いがビリーの中で自然に強くなるのは無理らしからぬ事であった。
ジャスティンに電話をした翌日、広大な学校内の南側に位置する運動場で、短い時間ながらもたっぷりと汗を掻いた二人は、凍える屋外から体育館脇の今は使われていない陸上部の部室へと移動して、ロドニーにタオルとレモンの香る冷たい水のボトルを投げてやり、ビリーも汗ばんだ頭にタオルを被って冷たい水を喉に流し込んだ。
「ローグ教授、此処は俺らだけで守るんだろ?」
ボサボサの金髪に無造作にタオルを被り、真冬でもそれ程寒さを感じないというロドニーは半袖のままで冷たい水を一気飲みして、口を拭ってビリーを見上げた。
「まぁ、そうなるだろうな」
学校の南側に位置する中央門付近に常駐のSAS隊員が二名居て夜間の敷地内のパトロールも行ってはいたが、事が起きたら自分が対処するしかないだろうと思っていたビリーは、冷え始めた体に青のウィンドブレーカーを羽織りタオルを首へ掛け直しながら答えた。
「だがロドニー、お前には――」
戦闘行為はまだ無理だと眉を寄せて言い掛けたビリーだったが、黙ったままビリーを見返しているロドニーの真剣な蒼の瞳を見て、やがてフッと息をついた。
「考えられるケースは幾つかある。まず、聖システィーナが単独で襲われた場合。この場合はクリスや修道院、SASやジャスティンに任せて俺らは此処の防衛に専念する。次に此処が単独で襲われた場合。援軍が来るまで自分達で身を守らなければならない。そして二箇所が同時に襲われた場合、援軍は僅かしか来ない。あるいは、全く来ない。自分達だけで皆を守らなければならない」
淡々と話すビリーの言葉を聞き入っていたロドニーは小さく息を飲んだ。
「ロシアが欲しいのは国連援助隊を足止め出来る人質だ。それが、班長殿やバーグマン伍長を手に入れられる価値のある人質なら尚更だ。だから狙われるのは、お前達、子供達だ」
危険性の高いこのW校と聖システィーナ、そしてバーグマン伍長の実兄コンラッド・アデス少佐の家族が住むデボンポートの三箇所が、既に英国でも重要警護地点として挙げられていた。
デボンポートは海軍が二十四時間体制で家族宿舎周辺を警護していると聞いていたし、絶大な力を誇る【守護者】クリス・エバンスの居る聖システィーナの防御は万全と思われていたが、此処W校は学校という性質と、以前校内をSASに警備させて手酷い裏切りを受けた過去を持つ事を考えると、校内にSASの兵士を常駐させて見回らせる事に校長のベル・オルムステッドは理解を示しながらも、受け入れ難いようで難色を示していた。
学校外では、子供達に気付かれないよう陸軍の小隊が密かに展開しているとビリーは聞いていた。
――だが、問題が起こるとしたら内部でだ。
真顔で考え込んでいるロドニーの横顔をチラリと見て、ビリーは彼には言えない言葉を飲み込んだ。
――この内部の何処かに、スリーパーエージェントが入り込んでいるかもしれない。
自分以外の全ての教職員達を疑って掛からなければならない現状に、尊敬する班長殿、アレックス・ザイア大尉の望む希望に満ちた未来の姿が朧に霞んで、ビリーはやるせない思いと共にまた嘆息をついた。




