第四章 第三話
ジャスティンが日頃からお世話になっているヘインズ家の朝食は普通の英国風朝食で、スコットランド名物のハギスは無かったが、鰊の燻製の代わりには鮭の燻製が添えられており、懐かしい故郷の味を口一杯に頬張ってジャスティンは自然と笑みを浮かべた。
「聖システィーナに鮭の燻製があるとは思いませんでした」
その鮭の燻製を頬張り緩む口元でヘインズ家の主婦ジャスミンを嬉しそうに見上げたジャスティンを見て、ジャスミンは「あら」と温かいベイクドビーンズを皿に山盛りにしながら笑った。
「『アルカディア』から交易で届くのよ。これは湖で取れる虹鱒だそうだけど。ソテーは『アルカディア』名物なんですって」
ジャスミンの説明に「へー」と頷きながら、大きなソーセージに齧り付いて一気に食べ終わったジャスティンの豪快な食べっぷりを見て、ジャスミンはクスクス笑いながら「お代わりはいかが?」と微笑み掛け、「はい!」と元気良く答えたジャスティンは、まだ湯気の立つベイクドビーンズも口一杯に頬張った。
スコットランドの北部アバディーンで生まれ、其処を拠点としてスコットランド内だけでこれまで生きてきたジャスティンにとって、同じ国内ではあってもイングランドは全く別の地域にように思えていたのだが、実際自分がこうしてイングランドに住まう事になって、イングランド人や他の地域の人々との交流を深めていくにつれて、人々の心の根底に横たわる優しさは何処であっても何も変わらないのだと、さり気無く気を配ってくれているジャスミンの優しさにも感謝して、皿にソースの一滴も残すまいと、また大きく口を開けて嬉しそうに頬張った。
その日は訪れる患者も少ない長閑な日で、時折訪れる患者に対応する以外はダンベルを片手にして医学書を眺める余裕すらあって、久しぶりにのんびりした時間を過ごしていたジャスティンだったが、入口の扉が開く時独特の軋んだ音に顔を上げると良く見知った顔が立っていて、相変らず隙の無い笑顔を見せている黒髪のその男に、ジャスティンは小首を傾げて立ち上がった。
この男、国連の国際コミュニティ管理局局長エドガー・リードは勿論患者では無く、ジャスティンに用があるのだと言った。
「君に渡したい物があるんだ」
「へ? 自分にですか?」
もう軍を辞め今は一介の医師、しかもまだ医学研修生でしかない自分に国連が一体何の用かと訝しむジャスティンの前で、エドガーは片手に下げた黒い鞄から何かを取り出して、ジャスティンに差し出しながら「ああ」と微笑んだ。
「うお! これって携帯電話?」
エドガーがジャスティン用にと持ってきたのは携帯電話であった。
以前はジャスティンも私用の携帯電話も軍支給の軍用の携帯電話も持っていたが、世界の崩壊により英国国内の通信会社が全て業務停止すると同時にその機能を失って、もう長い間忘れていた存在であった。
衛星を介する一部の携帯電話が復活し、各国とのホットラインや要人用にと使用されているのは知っていたが、それがまさか自分の元に来るとは思っておらず、艶々と黒光りしているその電話を何度も開け閉めしながら、ジャスティンはまだ目を丸くしていた。
「事態は、緊迫の度合いを強めている。それで、少なくとも英国に於いて防衛上重要な位置にある人物には支給したほうがいいという結論になってね」
「お、いや自分が重要な位置?」
「当然だろう。Ms.ビアンカ・ワイズを守るのは君だからね」
真顔に変わったエドガーの話を聞きながら、ジャスティンは丸くしていた瞳を細めて、手の中の機械をギュッと握り締めた。
「だが何処へでもかけられる訳ではない。その電話から繋がるのは僕と二名の各【守護者】と、Mr.ケビック・リンステッド、Mr.アレックス・ザイア、そしてMr.ビリー・ローグの各氏だけだ」
「って、ビリーにも?」
「ああ。君達には密な連絡が必要になるんじゃないか?」
エドガーの言わんとしている事はジャスティンにも察しがついた。
自分達と入れ替る様にスコットランドのエディンバラに旅立ったバーグマン伍長の代わりに此の地を守る事を命ぜられた自分達は、聖システィーナとW校の二箇所の重要拠点に分かれて存在しており、其々がその地をどう守るのか、そして、互いにどう助け合うのか、話しておかなければならない事は山のようにあるとジャスティンは感じ取っていた。
「まぁ分かっているとは思うが、ザイア大尉殿には不要不急の連絡はしないように。任務中に雑談など寄越されたら、大尉殿の邪魔になるからな」
「分かってますよ、それぐらい」
一瞬、班長殿にかけてみようかと頭に浮かんだジャスティンは、図星を突かれて誤魔化すように頬を膨らませて目では睨んでみたが顔は真っ赤だった。
使ってみたいのに使えない、ソワソワした感覚と苛立ちの感覚の中間の様な腰の落ち着かない一日を過ごしたジャスティンがその夜、ヘインズ家の客室で濡れた髪にタオルを被って、今宵もフカフカの感触でジャスティンを眠りに誘っているベッドの誘惑に負けそうになっていた時、唐突にその電話が鳴り始めてギョッと顔を上げた。
「よぉ。もう寝てるかと思ったけど、まだ起きてるなんて珍しいな」
「お前な。寝てると思ったらかけてくんなよ」
ジャスティンからの文句も軽く往なして屈託無く笑っているのは、ジャスティンの親友ビリー・ローグであった。
迂闊にかけられないのは班長殿だけではなく、W校の外国語教授であるこのビリーもであった。
日中は授業に出ている事もあるだろうし、手の掛かる妻テレサとまだ赤子のメアリー=アンという娘を抱えて、私的な時間であっても多忙であろうこの男にもかけるタイミングが分からなくて悩んでいたジャスティンであったが、当の相手は自分の事など欠片も気にしていないような物言いで、少しだけムスッとして口を尖らせた。
「まぁ、俺から見計らって掛けたほうがいいとは思ってたからな。聖システィーナの診療所なら夜間はお前暇だろ?」
「阿呆言うな。夜だって呼び出されるわ。最近は、俺が出向く事の方が多いしな」
実際に第一報はミレット尼僧の元に届くが、ジャスティンで対応可能と判断されると深夜でも遠慮無く叩き起されるジャスティンは、その所為でシドやジャスミンまで起こしてしまう事に気兼ねを感じ始めていた。
「じゃあ、今夜はラッキーだったってことにしておこう。で、本題なんだが」
ジャスティンの訴えをシレッと流したビリーは、一瞬間を置いて少し緊張した小声に変わった。
「俺は英国国内で異変が起こるとしたら、進駐の前だと思ってる」
「ああ、俺もそう思う」
ロシアが、迎え撃とうとしているS班の出鼻を挫くには進駐前に必要な身柄の確保に動くだろう事は、聡明なビリーだけでは無く、ジャスティンにも察しはついていた。
「やっかいなのは、W校には結界を張れる番人が居ないってことだ」
「でも、もうW校も結界内だろ?」
「そうだ。だが、前回もその結界内にSAが存在していた。現在は居ないと判断出来る材料が無い」
ビリーの言う事も尤もで、何かしらの理由があって結界内にまだ任務を帯びてはいないSAが存在しているかもしれず、そうなると一度牙を向いた彼らを排除するには番人か【守護者】の結界の力が必要であった。
「お前、番人になればいいんじゃね?」
気軽に提案したジャスティンの言葉にビリーはため息をついた。
「まぁ、それも考えたんだが。だが、番人になっても必ずしも結界が張れるとは限らないそうなんだ。同じ番人であっても、班長殿は結界を張る事が出来るが、アデス少佐殿は結界を張る事は出来ない。俺も張れない可能性が高い」
「そういうものなのか」
【守護者】のクリスが結界内の異常は直ぐに察知出来るのだが、その時にはW校と此処聖システィーナと二箇所同時に異変が起こる可能性が高く、クリス一人だけに対応を任せるのも不安があった。
「お前一人で大丈夫か?」
W校の生徒教員だけで無く、自身の家族も守らなくてはならないビリーの負担を思って心配そうに声を掛けたジャスティンだったが、当のビリーはケロッとして言った。
「まぁ何とかなるだろ。今でも格闘訓練でお前を失神させる自信があるからな」
「言ってろよ? 俺だって鍛えるのを怠ってる訳じゃないからな」
「当然だ。俺達は班長殿に任務を命じられているんだからな。S班の誇りに掛けて、任務を全うするのは当然の事だ」
ビリーのさり気無い一言が、ジャスティンが抱えた迷いに暖かい光を投げ掛けてくれていた。また新しい一歩が始まろうとしている、ジャスティンはそう思った。
その道は急峻なだけでは無く、今にも崩れ落ちてきそうな脆い岩を掴んで絶壁を登るようなものであったが、それでも自分は前へと進むんだと、心に浮かんだ荒れた光景にも怯まず、ジャスティンは蒼の瞳を光らせて、親友に誓いの台詞を返す様に「おう」と頷いた。




