第一章 第三話
ランニング禁止の廊下をまるで短距離走でもしているかのように全速力で走っているジャスティンを見咎めたカレンが、綺麗な眉を顰めて呼び止めようとする真横をその勢いのまま一気に通り過ぎてから、思い出したように立ち止まり「おい、新患の病室は何処だ?」とジャスティンは訊ねたが、その慌てふためいている様子に呆れてカレンが口を開こうとするよりも先に、廊下の先で立ちはだかっていたヒックス・ストライド医師が「おい、ひよっ子。話がある」とジャスティンを呼び止めた。
それどころじゃあないジャスティンは眉を寄せ、また走り出したそうにウズウズしていたが、ヒックスは傍らのカンファレンス室を顎で指した。
部屋に入るなり顔を突き付けてビアンカの容態を訊ねようとしたジャスティンを遮って、ヒックスは斜に構えた顔を向けた。
「お前の彼女の事なんだが……」
「何の疾病ですか? 虫垂炎ですか? それとも腸閉塞? まさかガンじゃ」
青褪めた顔で掴み掛からん勢いのジャスティンから少し顔を引き、ヒックスは暫く黙ってジャスティンを見つめた後、ボリボリと頭を掻いてため息をついた。
さっきまでの勢いは消え失せて、重い足取りで廊下を歩いているジャスティンは、ポツリポツリと患者番号札の下がった部屋を通り過ぎながらも中の様子を覗き込んでいた。
点滴に繋がれて両親が心配げに覗き込んでいる子や、折れた足をギブスでグルグル巻きに伸ばして車椅子に座る子、そして、入口の扉も閉じられた部屋の中から母親が啜り泣く声が漏れる部屋の前では、立ち止まったジャスティンは扉を開ける事も出来ず長い嘆息をついた。
三階の廊下の突き当たりにある三二五号室は四人部屋であったが部屋の患者番号札は一つしか掛けられておらず、開け放たれたドアの向こうでは綺麗に整えられた無人の三つのベッドが並び、窓側に置かれた一台のベッドだけが少しこんもりと盛り上がっていて其処だけ患者が居る事を示していた。
入口でその様子を暫くじっと見ていたジャスティンは、意を決してツカツカと部屋の中に入って行った。
大きなベッドに小さな身体を横たえ、胸元まで毛布が掛けられた先には流れる様な少しウェーブが掛かった金髪が白いシーツの上に広がっていた。
浅黒い肌に長い睫を伏せて、眠っているように見えたビアンカであったが、人の近づく気配を察したのか、コバルトブルーの美しい瞳を薄っすらと開き、その人物を見てパアッと表情を明るくした。
「ジャスティン!」
嬉しそうに少し赤らんだ頬の口元に小さく笑みを浮かべ、潤んだ瞳で見上げているビアンカの精気溢れる表情を見下ろして、ジャスティンは小さく嘆息をついてから徐に言った。
「ビアンカ。本当は何処も悪くないんだろ?」
憤りの浮かんだジャスティンの真顔を見上げて、ビアンカの顔が表情を固めたまま凍りついた。
ビアンカは仮病だった。腹痛と吐き気を訴えてはいたが、体温や血圧、心拍等にも問題が無く、血液検査の結果も異常が無いという状況で、ビアンカを問診していたヒックスが、時折窺う様な視線を向けて目を逸らすビアンカの様子から仮病だと気付いたのだった。
「何でそんな事したんだ」
ジャスティンの咎める強い口調に口元まで毛布で覆ってビクッと体を震わせたビアンカは、蒼の瞳に涙を一杯に浮かべて「だって」と呟いた。
「病気にならないとあなたに会えないんですもの」
「ビアンカ」
切々と訴えるビアンカのか細い言葉にも、ジャスティンは険しい顔を崩さなかった。
「今は、医薬品も器具も全てが足りてない。特に血液検査の試薬は最近医療用品メーカーが規模を縮小してようやく再開して、やっと手に入っている状況でとても貴重なんだ。それをお前は嘘をついて、病気だと偽って、その貴重な試薬を無駄にしたんだ。分かってるか」
ジャスティンならきっと笑って許してくれるだろうと思っていたビアンカは、予想していなかった冷たい態度に益々顔を強張らせて小さな体を震わせた。
「本当に治療が必要な重い病気や怪我の子供達が此処には運ばれてくる。医者だって足りてない。皆、それでも折角授かった命を助けようと懸命になってる。此処はお前の我儘に付き合う場所じゃない」
「ジャスティン……」
もうボロボロと零れ出した涙を拭くことも出来ず、細かく震える小さな手で必死に毛布を握り締めているビアンカに、ジャスティンは最後まで険しい顔を向けた。
「丁度エドガーが上に来ている。お前を送って貰うよう頼んだから、さっさと帰れ」
そう言うとクルリとビアンカに背を向けた。
「ジャスティン! 待って!」
立ち去っていくジャスティンに向かって、上半身を起こし精一杯手を伸ばしたビアンカであったが、ジャスティンは足を止めただけで振り返らずに言った。
「お前には、やるべき事があるだろ」
次第に遠ざかっていく足音を聞きながらベッドの上にちょこんと座り直ったビアンカは、小さな肩を震わせて堪えきれない涙がボロボロと零れて、それでも此処で声を上げて泣いたらジャスティンに迷惑が掛かるとグッと唇を噛み締めて堪え、しゃくり上げながらも声を殺して泣き続けていた。
「随分と冷たいのね」
ビアンカがエドガーに連れられて帰って行った後、小児科病棟のナースステーションで不機嫌極まりない顔で電子カルテに向かっていたジャスティンの背後から、看護師のカレンは嘆息をつきながら声を掛けた。
「仮病の患者に優しくする医者は居ないだろ」
ブスッとした顔のまま振り返らずに、ジャスティンはボサボサの銀髪をボリボリと掻いた。
「あら、小児だけは別よ。そもそも患者が仮病を訴える背景には、其処に何らかの合図があるケースが多いの。心理学的アプローチでその子の心因を読み解いて対処するのが正しい方法論よ」
腕組みをしたままでジャスティンを見下ろしているカレンの顔も険しく訥々と諭す正論にも重みがあったが、ジャスティンは背中に鋭い視線が刺さるのを感じながらも大きくため息をついた。
「心因も何も、アイツは俺に会いたかっただけだからな」
「それならつまり、彼女は貴方に会えない事が不安なわけで、その彼女の不安を取り除いてやるべきだったんじゃないかしら」
カルテを打ち込んでいた手を止めて、ジャスティンは振り返った。
「アイツは只の子供じゃない。次代の【守護者】だ」
「だからって」
「【守護者】の役割は、それはもう普通じゃないんだ。俺は何度も、アイツが奇跡みたいな力を発揮するのを見てきた。そんな膨大な力だからこそ、真っ直ぐに『あるべき方向』へと向けられなきゃいけない。アイツは、只の子供じゃないんだ」
そう語ったジャスティンの蒼の瞳に哀しみが浮かんでいるような気がして、カレンは口を閉ざしてジャスティンを見下ろした。
「……俺だって、逢いたいんだ」
ポツリと溢してからまたPCに向き合ったジャスティンの背中を、カレンは黙ったまま見続けていた。