第四章 第一話
軍時代から愛用している雑嚢は無粋なカーキ色が気に食わないと親友のビリー・ローグは言っていたが、ジャスティン・ウォレスにとっては体にしっくりとくる馴染み深いものであった。
丈夫でどれだけ詰めても破けないし、元来きっちりとした性格はではないジャスティンは中身が雑然となっていても気にしないし、父親が使っている黒皮のかっちりとした往診用カバンよりも自分に合っていると思っていた。
軍用ズボンに軍用靴で足元を固め、その上にボマージャケットを羽織って雑嚢を肩から斜め掛けにした姿は、まるで医者には見えず軍人そのものであったが、ジャケットの下にはケーシー型の白衣を着て、冬寒の下、農道を小走りに走っているのは往診の為であった。
国立中央病院の医学研修生ジャスティン・ウォレスが対ロシアに備えて重要人物である自分の婚約者ビアンカ・ワイズを守る為に、聖システィーナ修道院を中心とした聖システィーナ地区に派遣されて一週間が経っていた。
婚約者ビアンカの警護だけで過ごせると思っていた筈が、今日も今日とて走っているのは、滞在期間中は聖システィーナ地区にある臨時診療所を手伝えと指導医師であるヒックス・ストライドに命令されたからだ。
のんびりと過ごせないのは己の性分なのかそれとも運命なのか、一見穏やかに見える臨時診療所の医師エステラ・ミレット尼僧に、ジャスティンは顎でこき使われていた。
「ウォレス先生、Mr.ペンブリッジさんのお子さんが、昨夜から発熱を起こしてるそうなの。往診に行ってくれないかしら」
ニコニコと微笑むミレット医師は老齢の尼僧で、それだけを見ていると慈愛の篭った眼差しに心を癒されそうだが、お願いの形式を取っていてもそれは命令だと分かっているジャスティンは「はぁ」と頼りなげな返事を返した。
「Mr.ヘインズさんのお隣で、Mr.アボットさんの農場の隅の青い壁の家よ」
「でも、今日は域内視察で確かカートは出払ってると」
「でしたら、歩いて行けばいいんじゃないかしら」
地域の中央部にあるコミュニティセンターに設置されている臨時診療所からは域内の何処も結構な距離があるのだが、ミレット医師は表情も変えずに目尻に浮かんだ笑い皺を一層深くした。
今は冬枯れの畑が続く農道を、ブツブツ文句を溢しながら走っていたジャスティンだったが、右手に広がる丘の上に聳え立つ黒々とした石造りの時計塔を見上げてため息をついた。
丘の上に鎮座する石壁の建物が、ビアンカの居る聖システィーナ修道院であった。
そもそも自分はビアンカを守るために此処に来た筈なのに、まだ一週間の間、初日に会っただけで後はビアンカには会えずにいた。
ビアンカは若干十一歳のまだ子供で、平日は学校があるから会えないのは仕方ないと思ってみても寂しさの募るジャスティンは所在なげに佇んでいたが、通りすがりの兵士達に見咎められて一瞬警戒の顔をされたが、相手がジャスティンだと判ると兵士達は軽く敬礼を返して遠ざかって行った。
ロシアのベラルーシ進駐が近い状況の中で、英国国内にも警戒の気運が高まっていて、聖システィーナ地域を巡回する英国陸軍特殊部隊SASの姿もちらほらと見かけるようになっていた。
この聖システィーナ修道院は世界を守る役目を担って、この地区の【守護者】クリス・エバンスの力は絶大であった。そのクリスの番人である修道院の中で、ジャスティンの婚約者であるビアンカは次代の【守護者】と目される重要人物であった。
不可侵である【守護者】と違い、まだ番人にすぎない彼女を守るのがジャスティンの役目であり、使命であった。
その為に軍を辞めて彼女の傍に来たジャスティンは、黒々とした高い外塀を見上げ、その中にいる愛しい人の面影を探し求めた。
ヒックスには「医師たれ」と説教されたジャスティンだったが、軍在籍当時に近い格好で彼女の傍に居る自分を思うと、履き慣れたズボンや靴で大地を踏み締めて立っている自分が、一番自分らしいように感じていた。
運命に導かれて軍を辞め、医師となるべく新たな道を歩き始めた自分だったが、鍛え上げられた肉体で誰かを守るという事も捨てる必要はないんじゃないかと、思い始めている自分に少し戸惑った。
――まだ未練があんのかな。
班長殿や仲間達と過ごした軍時代を思い出し、やるせない嘆息をついたジャスティンであったが、また思い直して顔を上げて、夕べからの熱が下がらないという子供の元へと、足を踏み締めて銀髪を翻して走り始めた。
ボディーガードの役目も負ったジャスティンに懐かしい軍用品を届けてくれたのはSAS備品部所属ニックス・ベック一等准尉で、ジャスティンが尊敬する班長殿、アレックス・ザイア大尉のかつて部下であったと聞いて、ジャスティンは顔を綻ばせた。
「じゃあ、班長殿が軍に入ったばかりの頃の事をご存知なんですね」
「ええ、まぁ。その時は自分の方が上でしたけど」
苦笑を溢したニックスは運んできた軍用品のダンボール箱を置き、中の物を取り出しながら一つ一つ声に出して確認しジャスティンに手渡した。
「残念ですが銃器は規則によりお渡し出来ません。警棒とアーミーナイフのみが支給されます」
ニックスは真顔になってジャスティンを見上げた。
「後は、貴殿の戦闘能力にかかっています」
「了解しました!」
慣れ親しんだ敬礼を咄嗟に返し、鋭い眼差しで見ているニックスにジャスティンは険しさの増した表情で唇を噛んだ。
「SASでも内部調査は行ってはいますが、実際にSAが潜伏しているのかどうか、まだ判明はしていません」
ミレット医師が差し出したお茶のカップを丁寧に頭を下げて受け取って、ニックスは熱いお茶をしみじみと味わいながら言った。
「しかし、前回は結界を掻い潜って二名潜伏していたとか」
ジャスティンが溢した一言にニックスの表情が暗くなった。
その内の一名は、このニックスの妻ローズだったからだ。任務に失敗した彼女はその場で自らの死を選び、ニックスは残された二人の子供を育てるために、自ら降格を申し出て実戦部隊を退き、後方支援部隊に異動していた。
「ええ。なので、今もまだ潜伏中かもしれません」
そう答えながらもニックスは、実際には誰一人居ないで欲しいと願っていた。彼らSAが生涯一度の任務に就いた時には、その先にあるのは家族との別離しかないからだ。
重い口調で答えた後、黙り込んだニックスの顔を少し怪訝そうに見ながら、ジャスティンは疑念の消えない空気を感じて自分も口を閉ざして黙り込んだ。




