第三章 第八話
絶好調のジャスティンを更に喜ばせたのは思いもかけない人物の突然の来訪であった。
今でも心の中で班長と呼んで絶大な信頼を寄せているAAS時代の直属の上司アレックス・ザイア大尉は、ジャスティンにとっては永遠の上司であり尊敬する人物であった。
大きな派遣を前に婚約者であるバーグマン伍長と旅行で訪れたという予期しない訪問に、ジャスティンは全身で喜びを表した。
「ウォレス一等准尉、じゃなかったな。済まん。Mr.ウォレス」
「いえいえいえ。とんでもない。呼び捨てで構いませんので」
頬を赤らめキラキラした瞳でザイア大尉を見返すジャスティンは、まるでフサフサした毛並みのコリー犬の様な顔付きで、ブンブンと振る尻尾が見えるような、何時もアンガスを仔犬に例えている自分自身が犬のような顔で屈託の無い笑顔を見せていた。
だが、ザイア大尉が人目を気にしながら密やかに告げた言葉は、ジャスティンの本分を思い出させるものであった。
「ロシアと戦闘になれば、また英国でも前回同様何か起こる可能性がある。英国を守れ」
ベラルーシの国民投票でロシア編入が否決された事を知っていたジャスティンの表情にも翳りが浮かんだ。
ロシアがベラルーシに進駐してくる事は時間の問題だと思われ、同時に英国の関係者にも前回同様にスリーパーエージェントが手を伸ばしてくる可能性があり、それは即ち、ビアンカ達にも魔の手が迫る可能性がある事を示唆していた。
ビアンカと、そして次代の修道院院長イブ・ペイトンを守る事を命じられたが故に軍を辞めたジャスティンにとって、自分の為すべき使命は唯一つだけであり、その為に命を賭してこの場所に居ると思っていただけに、実際にその危機が間近に迫った事をひしひしと感じ取っていた。だがしかし、ジャスティンは恐れなど微塵も感じていなかった。その為に軍人時代に己を磨き鍛え上げてきたという自負がジャスティンを支えていた。
「了解しました!」
ジャスティンの返事は、迷う事無く一つだけしか存在しなかった。
蒼く輝く瞳を煌かせて決意の篭った敬礼を返したジャスティンにザイア大尉は安堵を浮かべて頷いて、その自分に寄せられる信頼に応えたいと、ジャスティンは上げた右腕に力を籠めた。
ロシアのベラルーシ進駐が予想される二月の中旬から、暫くの間聖システィーナに出向きたいというジャスティンの突然の申し出に、ヒックス・ストライド医師はあからさまに不機嫌な顔になった。
その暫くが、どれ程の期間になるのか見当も付かず、その遅れで来年の医師免許取得が叶わなくなるかしれないが、それでも構わないとジャスティンは思っていた。来年が再来年になったとしても、その分勉強すればいい、そう思っていた。
だがヒックスは無造作にジャスティンの申請書をテーブルの上に放り投げて、憤慨の浮かんだ眉間の皺を深くして言った。
「お前の本分は何だ」
すっかり軍人の顔に戻っていたジャスティンは、投げ掛けられた言葉に怪訝そうな顔になった。
「お前は医者だ。医師だ。まだひよっ子だが、れっきとした医師だ。お前はまだ自分が軍人のつもりでいるのか」
自分を諌めるヒックスからの強い言葉に戸惑ってジャスティンは口篭った。
「お前が、あのお嬢さんを守らなきゃならない立場なんだってのは分かってる。あのお嬢さんがどれだけ重要な人物なのかって事もな。だが、お前は医師として数多くの子供達を救わなきゃならないんだ。お前は一体何の為に小児科医を選んだんだ? あのお嬢さんを守る片手間か? そんなつもりだったら病院を辞めてから行け」
ヒックスの言わんとする事の意味を悟って、ジャスティンは返す言葉を探して視線を空に彷徨わせた。
確かに、医師として私事を捨てても人命に向き合わなければならない事があるのも、十分に分かっているつもりであった。
小児科医を選んだのも父親の背中を見てきたからだ。ビアンカやイブを守るのと同時に、この先の未来を作っていく子供達も守りたかった。それは決してジャスティンにとって片手間ではなかった。
世界中を回って被災地の子供達の窮状を見てきただけに、そんな子供達を助けたいという強い思いこそが自分を動かしているのだと、そう告げようとジャスティンは顔を上げたが、既にヒックスは放り投げた申請書を手にしていた。
「戻ってきたら死ぬ気でやれ。予定通りに二年で卒業しろ。それがお前のたった一つの道だ」
乱暴に申請書にサインしてジャスティンに投げ返したヒックスは、クルリと椅子を返すとジャスティンに背を向けた。
生半可な気持ちで一年遅れてもと思っていた自分の甘さを突き付けられて、ジャスティンは恥ずかしさに頬を赤らめたが、気を取り直して、足を揃え直しても軍靴のようにカツンとは鳴らない足元ではあったが、直立不動の微動だにしない姿勢で敬礼を返して全身で叫んだ。
「了解しました!」
そのまま身じろぎもせずに鋭い視線を返してくるジャスティンを振り返って、ヒックスはピクリと片眉を上げて「あのなぁ」とボリボリと頭を掻いた。
「だからもう此処は軍じゃねぇんだ。俺に敬礼されても返せんぞ」
言葉の最後には苦笑を返したヒックスは、すっくと立ち上がると通りすがりにジャスティンの肩をポンと叩いて暢気な鼻歌を歌いながら部屋を出て遠ざかって行ったが、暫くの間ジャスティンは右手を掲げたままで、遠く未来を見つめて指一本動かす事は無かった。
「ってなると、僕の休みは無くなりますねぇ」
その日の昼食の時間、相変らず小さな体ながらモリモリと食べるアンガスは咎めるでもなく淡々と呟き、それが一層ジャスティンには重荷となって「ウッ」と言葉に詰まったジャスティンは、大きく開けた口に放り込んだコテージパイをも喉に詰まらせそうになって慌てて水で流し込んだ。
「……済まんな」
一応は詫びたものの、窺うように覗き込んでくるジャスティンの顔をチラリと見上げて、アンガスはニヤリと不敵に笑った。
「お礼は何がいいかなぁ」
「いやいやいや。戻ったら幾らでも休日変わるから。飯も奢るし」
身体と言われてはかなわないと、必死で首を振るジャスティンをじーっと見返して、アンガスは諦めたのかフゥと息をついた。
「残念ですが、それでいい事にしましょうか」
ウンウンと全力で頷いているジャスティンをクスクス笑いながらアンガスはポツリと言った。
「でも、羨ましい限りですね。そんなに守りたい人が居て」
「お前だって、ちゃんと本気で人を好きになれば、幾らでも」
何気なく言い返したジャスティンは、珍しく食べる手の止まったアンガスの様子に訝しげに顔を上げた。
其処には見慣れた仔犬のような穏やかな顔付きのアンガスは無く、少し驚いた様に見開かれた緑の瞳は光を失って黒い闇の様に見え、仮面のような表情からは負の感情しか読み取れず、ジャスティンも手を止めてマジマジとアンガスを見返したが、それも一瞬で直ぐに何時もの表情に戻ったアンガスは、フッと小さく口の端に微笑みを浮かべた。
「まぁ、何時かは」
言葉を濁す様に小さく呟いたアンガスは食べ終わったトレーを手にさっさと立ち上がって、「じゃあ、先に病棟に戻りますね」と、声を掛けようとしたジャスティンを残して席を立ってしまった。
何か彼の琴線に触れる様な事を自分は言ってしまったのかと首を傾げたジャスティンだったが、時折見せるアンガスの寂しげな表情の裏に底の見えない闇が隠れているような気がして、大きくため息をついた後、最後のパイの一切れを口に放り込んだ。




