第三章 第七話
ヒックスとカメリア、そしてアンガスの絡んだ歪んだ三角関係が気になるジャスティンではあったが、それは自分が踏み込んでいい問題では無い事も分かっていたため、心の何処かに引っ掛かる棘は感じながらも口に出す事はしなかった。
それに、自分にはやらねばならない事が山のようにあり、膨大な課題を抱えながら外来や病棟の患者に追われる毎日で、なけなしの休日には一日中寝ていたい気分であったが、オンボロ車を飛ばして聖システィーナに出向くのを止めるわけにはいかなかった。
「よお、元気だったか」
先週も会っているくせに口癖の様に笑い掛けるジャスティンに、ビアンカは抱き付いて顔を上げてクスクスと笑った。
「勿論元気よ。サイとジェマも元気よ。サイはね、まだ今年風邪を引いてないの」
「へぇ。そりゃいいな。少し背も伸びたし、筋力も上がってきてる。免疫力が上がってきてるのかもしれないな」
医師の顔で顔を綻ばせるジャスティンの手を引いて、ビアンカは嬉しそうにフフッと笑った。
「クリスがね、お茶にしましょうって。気持ちは分かるけど、まだ余り二人きりにはならないようにだって」
腹の底を見透かされてジャスティンは不満げに口を尖らせたが、まだ十一歳のビアンカの年齢を考えればそれは致し方ない事だし、何よりも睨まれただけで全身が硬直するような班長殿の視線を思い出せば、迂闊にビアンカに手を出したくなるような状況を作らないほうが自分の為になると、笑いながらジャスティンを先導していくビアンカの後を苦笑しながらついて行った。
「よぉ、久しぶりだな」
ところが、修道院内の【守護者】の執務室には、歓迎したくない先客が居た。
湖水地方にある『アルカディア』のコミュニティリーダーであるケビック・リンステッドは、国際コミュニティ会議の議長でもあり頻繁にロンドンと往復しているのは知っていたが、天敵とも呼べるこの男が聖システィーナの【守護者】クリス・エバンスの友人でもあった事を思い出して、ジャスティンはあからさまに不快が浮かんだ顔を曇らせた。
ジャスティンがケビックを毛嫌いしているのは、ケビックが教えなくてもいい情報、『煮え切らない男の落とし方』を、ビアンカに教授した事が原因であった。
女好きで有名なケビックは、今は聡明な妻シスルとの間に子供も居る立派な父親であったが、横柄で馴れ馴れしいその態度と過去の女性遍歴を思うとビアンカには一番近づけたくない相手であった。
ビアンカにも「ケビックとは絶対に口を利くな」と厳しく戒めていたジャスティンは、ビアンカを守るように自分の背後に隠して、「ええ。お久しぶりです」と素っ気無い口調で淡々と返した。
「なんだよ、愛想無いな。ビアンカも挨拶なしかよ」
「だって、ケビックと口を利いちゃダメって言われてるんだもの」
ツンと澄まして横を向いたビアンカに言われて、その理由に思い当たらないケビックは「はぁ?」と呆れ顔をクリスへ向けた。
「前にケビックがいらない事をビアンカに教えたからだよ。それでジャスティンは怒ってるんだから」
その事情を知っているクリスはクスクスと笑って呆れ顔の友人を諌めた。
「そりゃ、悪かったな」
まだ気まずそうな、それでいて剥れているケビックは、目の前でじーっと咎める視線を投げ続けているジャスティンの顔を正面から見れず、そっぽを向いてカップから熱い紅茶を啜った。
ジャスティンと並んでソファにちょこんと座り、クリスに懇願されてようやくケビックとも口を利く事を解禁したビアンカは、逆にジャスティンを宥めるように大人びた顔で見上げて笑った。
「もう大丈夫よね、ジャスティン。ケビックおじさんに教えて貰わなくても、ジャスティンがちゃんと教えてくれるもの」
何気ないビアンカの台詞に男三人が一斉にブッとお茶を吹いて、「ジャスティン……」と抗議の眼差しを向けるクリスと、ゲラゲラ笑い転げているケビックを前にして、ジャスティンは真っ赤に爆発させた顔をブルブルと激しく振り、「いや! 違うから!」と両手もブンブンと振って全身で否定した。
「だって、この間『十六歳になったらちゃんと全部俺が教えるから心配するな』って言ってたじゃない」
悪びれもしない顔のビアンカにジャスティンは激しく頷いて、
「そうそう! 十六になったらな! なってからだからな!」
と自分が無実である事を証明すべくぎこちなく笑みを浮かべた。
「それじゃ、ビアンカにじゃなくて、ジャスティンに教えたほうが良さそうだな。学生時代モテまくった俺の手練手管を教えてやってもいいぜ?」
不敵に笑ったケビックの台詞に一瞬目を輝かせたジャスティンであったが、ハッと思い直して「いや、全然間に合ってますから」と虚勢を張った顔でフンと鼻で息をした。
帰り際にビアンカが「いい所があるの」とジャスティンを案内したのは、地域の花農家シド・ヘインズが管理する大きな温室だった。
冷たい木枯らしの吹く外から温室の扉を大きく開け放つと、途端に暖かい空気が零れ出し、その中に漂う花の香りにジャスティンも思わず目を細めた。
真冬の間の蜜蜂達の避難用に作られたというこの温室の中では、色とりどりの花々が冬枯れの外の世界を知らぬかのように咲き乱れ、慌しく飛び回って蜜を集める蜂達も、丸々とした小さな体に黄色の蜜を団子のように纏わりつかせて、乱入者を気にする風でも無く、花々と巣箱を盛んに往復していた。
「すげぇな」
「でしょ。それにね、懐かしい花があるのよ」
温室の中の小道をズンズンと歩いていくビアンカの視線の先には低木があり、白い花弁の中央部だけがほんのりと赤い花が辺り一帯に強い香りを放っていた。
「このお花、本当はローゼルって言う名前なんですって。でも島ではレモネードブッシュって呼んでたわ」
「これ英領ヴァージン諸島にもあったのか」
「うん。このお花ね、食べられるのよ。花が萎むと赤い実みたいになるの。そのままでも食べられるから、この花の咲く時期には良く食べたわ」
ロクに食べる物も無かった島時代を思い出したのか、ビアンカは蒼の瞳を少し細めた。
この甘く香る強い芳香をジャスティンは知っていた。ビアンカと口づける度に自分に吹く南の風の香りだった。
「ビアンカ……島に帰りたいか?」
花に顔を近づけてその香りを楽しんでいるビアンカの小さな頭にジャスティンは問い掛けた。
運命に導かれるようにBVIから英国にやってきて、その英国で次代の【守護者】たる事を宿命付けられたビアンカには島へ帰る道は閉ざされていた。
それでも生まれ育った島に郷愁を感じていない筈は無いだろうし、二度と戻る事の出来ない故郷に想いを馳せているビアンカの気持ちを慮って、ジャスティンは彼女を縛り付ける過酷な運命に胸の痛みすら感じたが、ビアンカは振り返って微笑みながら首を振った。
「島はお兄ちゃんとエドナお姉ちゃんがきっと二人で守ってくれる。何時かきっと、島を再興してくれる。私は信じてるの。だから私は、貴方と一緒に歩いていくの」
より一層強く漂う花の香りに蜜蜂達は戸惑っているのか、二人の周りを小さな羽音を立てて飛び回っていたが、島の香りに包まれて幸せ一杯のビアンカは、愛しい人の唇を受け止めて穏やかに微笑んでいた。




