第三章 第六話
※ジャスティン視点に戻ります。
確かに、アバディーンから戻った後のジャスティンは正に絶好調であった。実践発表はそつなくこなせた上に、本国に帰国出来ずに英国に留まっている在英ベネズエラ大使の、お子さんの原因不明の腹痛が、英国には自生しない南米特有の植物の誤飲によるものだと気付いたのはジャスティンで、軍時代に収集した情報が役に立った事もジャスティンにとって大きな喜びだった。
不安要因が消えて毎日ぐっすりと眠れるジャスティンが朝が弱いのは相変らずで、特に成人したビアンカとの薔薇色の夢を見ていたとあってはベッドから離れられず惰眠を貪っていたのも無理は無く、指に絡みつく金髪を撫でながら赤く熟した唇に顔を寄せようとしたところで、本能的に危機を察知したジャスティンはバッと目を見開いた。
「……あん、止めなくてもよかったのに」
ジャスティンの目の前にあったのは、妖艶な笑みを浮かべた同僚アンガス・エイドリアンの仔犬のような顔で、その唇まで後数cmというところでガバッと起き直ったジャスティンは、顔を引き攣らせて体を引いて、「な、な……」と狼狽えながら自分のベッドの上にちょこんと座っているアンガスを指差した。
「先輩が起きて来ないから起こしに来ただけですよ」
悪びれもしないアンガスは、目を閉じて「んー」と唇を近づけた。
アンガスの頭を思いっきり叩き、襟首を片手で掴んで部屋の外に放り出したジャスティンは、ブリブリと怒りながら着替えを済ませ、まだ部屋の前で頭を擦って涙目できゅんきゅんしているアンガスを横目でジロリと睨んだ。
「今度寝込みを襲ったら、足腰立たないまでぶん殴るからな」
「やめて下さいよ。っていうか、先輩が自分でちゃんと起きてくれればいいだけなのに」
「……悪かったな」
不満げに口を尖らせているアンガスの言う事もご尤もで、それは自覚しているジャスティンはボリボリと頭を掻いた。
二人揃って病棟三階にある小児科医局へ向かってペタペタと歩きながら、アンガスはファイルを胸元で抱えたまま、ウルウルとした瞳でジャスティンを見上げてにっこりと笑った。
「先輩って実は男から見てなんかそそるんですよね。以前から男にモテませんでした?」
「うるせー」
自覚のあるジャスティンは、寝癖で跳ね捲った銀髪をブンブンと振って、過去に男担当と言われた自分の軍人時代を思い出して一層顔を剥れさせた。
「なんか、食べ頃の果実がゴロゴロとしてるのに、手出せないってのも結構キツイもんなんですねぇ」
これまでは上げ膳据え膳で、食いまくってたんだろうアンガスをフフンと見下ろして、ざまあみろという顔になったジャスティンであったが、ふと思い出して「なぁ」と声を掛けた。
「あの、ハーレムの話はどうなったんだ?」
内科医のカメリア・オハラ医師を筆頭に、現在は病棟内の四人と同時進行している筈のアンガスだったが、キョトンとした顔をした後にクスクスと笑みを溢した。
「三人のお局様達とはもう終わりましたよ」
「へ?」
「元々遊びですし、内二人は既婚者でしたしね」
サラリと言ってのけたアンガスに目を見開いたジャスティンは、それに関する噂が何一つ流れていないのが、この男の凄さの真骨頂なんだろうと、益々呆れて口を開けた。
「その、オハラ先生とはまだ続いてんのか?」
「ええ。僕としては彼女が去るんなら引き止めはしないですけど」
穏やかな物言いで、顔付きは仔犬のように円らな瞳をキラキラとさせているアンガスだったが、言葉の底に潜む冷気に触れたような気がして、ジャスティンは小さく肩を竦めた。
そのカメリアの変遷は、勿論看護師達の噂話に上ってはいたが、殊更驚いてはいないようで、最初に見た時には驚愕で声が出そうになったジャスティンとしてはそれが不思議であった。
今日は小児科主任医師のヒックス・ストライドが朝から不在で、病棟回診をサポートして貰ったカメリアが内科病棟へと戻った後、ナースステーションでキビキビ動き回っている病棟看護師カレン・ホッグスを捕まえて、ジャスティンはその理由をこっそりと訊ねてみた。
「あら、知らないの?」
カレンは患者用の清拭用具を手際良く揃えながら、ジャスティンには見向きもせずに言った。
「元々オハラ先生は、最初はあんな感じだったのよ。清楚な美人で。何時頃からだったかしら、派手になったのは」
ブツブツと独り言のように呟いているカレンに、ジャスティンは「へぇ」と相槌を返したが、それも気に留めずカレンはワゴン上の用具を一点ずつ確認してから「あ」と顔を上げた。
「そういや離婚した後だったわね。変わったのは」
「オハラ先生、結婚してたのか」
「そうよ。ストライド先生とね」
「ええええええええ」
突拍子も無い声を上げたジャスティンをカレンはジロリと睨んだ。
元々ヒックスは北ウェールズの出身で、北部の主要都市レクサムにある大病院で医師をしていたのだと言う。
「そこからご夫婦でこの国立中央病院に赴任していらしたんだけど、来て直ぐに離婚して、今は二人とも独身よ。その事は触れないのは不文律だから、絶対にストライド先生に言っちゃダメよ」
カレンに睨みを効かせた怖い顔で念を押され、ブンブンと頷いたジャスティンであったが、全くそんな気配も感じさせずに、淡々と同僚として接している二人に何か哀しいものを感じて小さく嘆息をついた。
午後になって、所用で政府庁舎に出向いていたヒックスが戻ってきて、今日の病棟回診の様子をカメリアから報告を受けている姿をチラチラと横目で見ながらも、ジャスティンは内心のもどかしさを隠そうと必死であった。
大人な二人は淡々としたやり取りで業務報告を行っており、その姿からはかつて夫婦であった名残を感じ取る事は出来なかったが、逆にその雰囲気からは剣呑とした刺々しさも感じず、二人が別れた原因は不仲ではないのだろうとジャスティンは感じ取った。
――俺には無理だろうなぁ。
喜怒哀楽が直ぐ顔に出るのを自分でも覚っていたジャスティンは冷静沈着な二人に羨ましさも覚えたが、想いを寄せた相手が今では他人の様に思えるのはどんな感覚なんだろうと、自分に置き換えて考えてみようとしたが直ぐにそれは無理だと自覚した。
――ビアンカと別れるなんて考えられない。
キラキラとした瞳で笑い掛けてくるビアンカの顔を思い浮かべて、ジャスティンは資料に没頭している振りをして想いを巡らせた。
それが彼女の為になるのなら自分はビアンカと結婚出来なくてもいいと思った日もあったジャスティンであったが、こうして正式に婚約者として周囲から認められた今となっては、彼女の結婚相手が自分以外の誰かになるとは全く想像も出来なかった。それを思うと体中の血が逆流する様な憤怒の感情が湧き上がってきて、自分でもどうしようもないほどビアンカを愛している自分がいるのを感じてジャスティンは戸惑った。
この想いが消え失せてビアンカと別れると考えられる筈も無く、持て余す感情が自然に顔に出ていて眉を寄せていたジャスティンは、立ち去り間際、カメリアがふと振り返ったのに気付いた。
もうヒックスは淡々と彼女に背を向けていて走り書きした自分のメモに視線を落としていたが、その背に向けて送るカメリアの黒の瞳からの視線が何処か哀しげなのを見て、ジャスティンはあの時の事を思い出した。
――オハラ先生は、ストライド先生の事を見ていたのか……
初めて今の清楚なカメリアを見た日、哀しげな視線でアンガスを見ているんだと思っていたが、その時もヒックスはカメリアに背を向けていて、その向こう側にPCから目を離さないアンガスが居た事を思い出して、その時もカメリアはアンガスでは無くヒックスを見ていたのだと気付いたジャスティンは、無言で立ち去るカメリアの寂しげな足音が消えていくのを、ただ黙って聞いていた。




