第三章 第五話
※病棟看護師カレン視点です。
病院という場所は二十四時間三百六十五日間休みはないわけで、外来休診の看板を出していたとしても病棟は患者が居る限り休む筈も無く、それなのに、事も有ろうに医学研修生の分際でクリスマスから年明けに掛けて一週間も休んだあげく、しかもそれが婚約者とのラブラブな婚前旅行だったと知って病棟看護師カレン・ホッグスの腹の虫は収まらなかった。
その張本人ジャスティン・ウォレスは、悪びれるでも無く、寧ろ年明けに出勤してきてからは常に上機嫌だった。
虫の居所の悪いカレンに怒鳴られてもチクリと皮肉を言われても、全力で頭を下げて「すみませんでした!」と謝る素直なところも、艶々とした頬で明るく笑っている姿も、人生薔薇色を全身で表しているジャスティンに、カレンは正直呆れるを通り越して気だるげにため息をついた。
「……ついに、やっちゃったのね」
三階にある小児科病棟のナースステーションで、キビキビとした顔で電子カルテを覗き込んでいるジャスティンの背後からカレンがため息交じりの呟きを洩らすと、ジャスティンはキョトンとした顔で「へ?」と振り返った。
「まだ警察組織は復興してないけど、犯罪は犯罪よ?」
眉を寄せてしみじみと語ったカレンに、ジャスティンはようやく言われている言葉の意味を悟ったのか、顔を真っ赤に爆発させて、ジタバタと両手を動かして叫んだ。
「まだ性交ってねぇよ!」
「もう病院中で噂になってるわよ」
「だーかーら! 親に紹介して婚約を認めてもらえただけだっての。他の連中にもそう言っとけ!」
剥れたジャスティンは鼻息も荒くPCに目を戻し、キーボードを乱暴にカシャカシャと叩いた。
「随分と充実した休暇だったみたいね。病棟をほったらかしにして」
その一言は効いたらしく、ジャスティンは気まずそうにカレンを振り返った。
「それは悪かったよ。でも、俺は」
「ロリコンじゃねぇ、かしら?」
台詞を奪われたジャスティンが口をヘの字にしたままブンブンと頷くのを見て、カレンはまたフゥとため息をついた。
「まぁ、勘弁してやれ。奴のお姫様は特別だからな」
真冬だというのにサンダル履きの足元は素足で、何時ものようにボサボサの茶髪に無精髭の無愛想な小児科医ヒックス・ストライドの病棟回診に付き添っているカレンに、ヒックスは廊下をペタペタと歩きながらカレンを振り返らずに言った。
「でも、先生」
カレンは不満げに眉を寄せた。
実際に、クリスマス休暇の間にも急患はひっきりなしで、腹痛や発熱を訴える子供達や、怪我をした子供達でER室は溢れ返って、ヒックス医師もジャスティンと同期の医学研修生アンガス・エイドリアンも、仮眠で乗り切りながら診察に追われていたのだった。
「暮れに、俺んとこに客が来たんだ。スコットランドのAASだと言っていた」
回診を終え小児科医局へ戻ったヒックスは、椅子にどっかと腰を下ろして、カレンから受け取ったカルテの山を無造作にテーブルに積み上げて一番上の一冊を手にし、胸ポケットに差したペンを取り出し顔を上げずにカルテに走り書きしながら独り言の様に呟いた。
ヒックスの元を訪れたのは、スコットランド陸軍第九十九AAS大隊の副大隊長を務めるという、オラフ・ハリソン大佐であった。
「で、俺は初めて知ったんだ。【守護者】の意味をな」
まだ怪訝そうに扉の傍で立っているカレンに、語り掛けるようにヒックスは話し続けた。
元はこのハリソン大佐の下で働いていたジャスティンは、婚約者ビアンカ・ワイズを守る事を選択して軍を辞めたのだという。
「ビアンカ嬢は次の【守護者】だと言われてはいるが、実際はまだ【守護者の番人】の一人に過ぎないそうだ。だからこそ、アイツの守護が必要なんだと」
ヒックスは書き終わったカルテをバタンと閉じるとテーブルの上に放り投げ、また次のカルテを手に取った。
「元々、結界ってのは【守護者】を絶対的に守るそうだ。【守護者】に何かあれば、結界そのものが消失し多大な被害が起きる可能性があるからだ。だから、結界内では誰も【守護者】に手を出せない。だが、ビアンカ嬢はまだ【守護者】ではない。将来的にはそうなるだろうと思われているが、今はまだ『守られてない』んだ」
意味を諮りかねて眉を寄せているカレンを、ようやくヒックスはチラリと見上げた。
「まぁ、結界の中に居れば生命の危機が及ぶ事は無いんだろうが、結界外へ出るとなると、彼女には強固な警護が必要なんだと大佐はおっしゃっていた。ロシアがまだ狙っているらしいからな」
「じゃあ、ジャスティンが?」
「ああ。彼女を守るのは彼しか居ないそうだ。その間柄を【鍵】と呼ぶそうだ」
その間にも手を止めないヒックスは書き込みの終わったカルテの山を積み上げて、フゥと息をついてペンを胸ポケットに戻した。
「その為に病院には迷惑を掛ける事もあるかもしれないが、どうか彼を宜しく頼むと大佐は頭を下げて帰って行った」
ヒックスは立ち上がると部屋の隅に置かれた冷蔵庫の中から小瓶を取り出して、喉を鳴らしながらゴクゴクと呷った。
「……何だよ、睨むなよ。エールじゃないぞ。麦茶ってやつだ」
咎める視線を投げているカレンを振り返って、ヒックスは口元を乱暴に拭いながら不満げな視線を返した。
「つまりは、彼女が結界内で大人しくしていれば、ジャスティンも振り回される事も無いと」
テーブルの上に投げ出された記入の済んだカルテの山を抱き上げようとしながら、カレンはヒックスを振り返ったが、また飲もうとしていた小瓶を口に当てたままヒックスは手を止めて、小さく眉を上げた。
「そうだ。だが、大事な事を忘れてるぞ、カレン」
「え?」
「ビアンカ嬢は、今はまだ十一歳の子供なんだ。例え【守護者】の後継者であってもだ」
ヒックスの鋭い緑の瞳に見返されて、カレンは戸惑った。
例え【守護者】の後継者だったとしても、彼女が普通の子供達と同じ様にあらゆる物に好奇心を抱き、知ろうとする心、知識を吸収しようとするその意思を、誰一人として踏み躙る事は許されないとヒックスは強い口調で言った。
――彼女を狭い世界に閉じ込めておくなって事ね。
小児科の看護師として、もう五年此処で働いているカレンには、ヒックスの言わんとする事は分かっていた。
閉ざされた中で【守護者】としての特別な教育だけを施されるのでは無く、一般市民と同じ様に育ってその感性を培い、同じ高みで生きる事によって、初めて彼女は市井の人々を守る事が出来る筈だと、ヒックスは最後にカレンを諭すように言った。
「なるほど、それで【鍵】が等身大のジャスティンなわけね」
昼食後、屋上で風に吹かれながらカレンは独り呟いた。
仄かな想いを寄せた事もあるジャスティンの、屈託の無い笑顔を思い浮かべて、それが彼の心根の奥底からの誠実さの表れなのだと気付いたカレンはフッと笑みを見せた。
「じゃあ、しょうがないわね」
両親に婚約を承認されたというだけで、あんなに嬉しそうな顔をしているジャスティンに小さく苦笑を洩らして、カレンは重い雲の垂れ込めるロンドンの空を見上げて「あーあ」と自嘲気味に呟いた。
「羨ましいわね、ほんっと」
自分にもそんな騎士の様な『絆』の相手が見付からないものかと、冷たい風の吹く中カーディガンの襟を寒そうに合わせて、カレンは「よしっ」と気合いを入れ直して踵を返し、今日も戦場さながらの病棟にゆっくりと戻って行った。




