第三章 第一話
病院という場所は二十四時間三百六十五日間休みが無いわけで、クリスマス休暇を迎え表向きは一般外来休診の看板を出してはいたが、入院患者も居るし急患は来るしで、医学研修生とは言え医師の端くれであるジャスティン・ウォレスは自分の故郷スコットランドのアバディーンに帰省するつもりは全くなかった、筈であった。
それなのに、何で俺はこうして故郷に向かって車を走らせているのかと、助手席で上機嫌で鼻歌を歌っている小さな物体をチラリと横目で見て、「ハァ」とジャスティンはため息をついた。
事の始まりは、一旦は今年のスコットランド行きを学業優先の為断ったビアンカが、「やっぱり行く」と言い出したからだ。
「お前、学業優先だろうが」
「だって、もう終わったもの」
ツンと澄ました顔のビアンカを睨んで見ても何処吹く風であった。
ジャスティンの恋人、いや婚約者であるこのビアンカ・ワイズが学業に追われているのは理由があって、来年の春には十二歳になるビアンカは、小学校を一年残して一歳上の島の仲間サイとジェマの双子と共に来年の秋にはW校へと進学する予定だからだ。
英領ヴァージン諸島で保護された子供達十人の中の最年少であるビアンカが、一人だけ小学校に残されるのが可哀相だという周囲の大人達の配慮によるものなのだが、そのお陰でビアンカは一年間で二年分の課題をクリアせねばならず、毎日山の様な宿題と格闘しているようであったが、それを終わったと言い放つビアンカの強がりだろうと思ったジャスティンは大きくため息をついた。
「あのなぁ、ちゃんと課題が終わらないと卒業出来なくて、一人で小学校に残されるんだぞ」
「だから、ちゃんと終わったってば」
あくまでも強気のビアンカにジャスティンは困惑してボリボリと頭を掻いた。
ところがビアンカの話は嘘では無くて、彼女はこの十二月までに今の学年の課題を本当に全て終えたのだと、聖システィーナ修道院付属小学校の校長マクニール院長代理に告げられて、ジャスティンは目の前で得意そうに両手を腰に当てて威張っているビアンカを、ポカーンと見下ろした。
オーロラを見に行くんだから絶対皆の行き先はアバディーンよと譲らないビアンカは、帰省するついでに乗せて行ってくれればいいと渋るジャスティンを宥め空かして、こうして予定していなかった帰省するハメになったのだったが、皆を驚かせたいから内緒にしてと【守護者】のクリス・エバンスやマクニール院長代理に懇願していたビアンカが、絶対にこっそりと何かを企んでいるとしかジャスティンには思えなかった。
途中休憩で立ち寄った湖水地区の『アルカディア』で、小屋前の大きなテーブルで地面に届かない足をブラブラさせて温かいミルクを美味しそうに飲んでいるビアンカに、ジャスティンは「なぁ」と声を掛けた。
「本当にアバディーンだって言ってたのか?」
「さぁ? でもオーロラを見るならアバディーンでしょ?」
確かに一昨年はアバディーンで奇跡的にオーロラを見る事が出来たが、そもそもハイランドとは言え緯度は北緯五十七度八分であり、オーロラベルトと呼ばれるオーロラ可視範囲よりも若干南で、余程運が良くなければ見られない場所でもあった。
オークニー諸島でもオーロラベルトに掛かっておらず、確実さで選ぶなら絶対にオークニーだよなぁと内心でブツブツと呟いているジャスティンの不満顔をチラリと横目で見て、それでもビアンカは得意そうにフフンと笑って、小さな手で抱えた大きなマグカップのほっこりとした温もりを味わっていた。
ジャスティンの不安は見事に的中して、エディンバラに到着した彼を待っていたのは、かつての先輩ランス・ウィルソン少尉からの冷たい言葉であった。
「もうとっくに全員オークニーに移動してるが」
「えええ」
「校外授業なんだから、確実性の高い方を選ぶに決まってんだろが」
此処まで来てビアンカを追い返すわけにもいかず、途方に暮れたジャスティンだったが、今も記憶の中で鮮明に残っている懐かしいS班作戦本部のルドルフ・レッド少尉の隣席にちょこんと座って、彼の愛娘の写真をきゃあきゃあと喜んで見ているビアンカに、何か思い付いたのかパアッと顔を明るくして声を掛けた。
「じゃあさ、折角だからその晩餐会にビアンカも参加させて貰えよ。皇太子様に会えるぞ」
彼等S班が王室の晩餐会に招待されたという話を聞いて、女の子ならば誰でもが憧れる華やかな舞台に正装したビアンカはさぞかし似合うだろうと、ジャスティンはうんうんと自分で頷きながら期待を込めた瞳をキラキラとさせたが、ビアンカは素っ気無かった。
「ダメよ。ドレス持ってきてないもの」
「んなもん、普段着でも大丈夫……いや、きっとお前のためになら、スコットランド人は一致団結する」
「はぁ?」
「ドレスの一着や二着、ランスおじちゃんとルドルフおじちゃんがきっと用意してくれる」
「誰がおじちゃんだよ」
またパコンといい音をさせてジャスティンの頭を叩いたランスは、呆れてため息をついた。
「まぁ、そうしたいというならそうするが」
ジャスティンの無理難題にも関わらずニヤリと笑ってルドルフと互いに顔を見合わせたランスだったが、ビアンカは首を横に振った。
「それよりも大事な用事があるの」
「何だよ」
まだ叩かれた頭を擦って涙目のジャスティンはビアンカを睨んだが、ビアンカは蒼の大きな瞳をクリクリと輝かせ、頬を少し染めてウフッと笑った。
「此処まで来たんですもの、貴方のご両親にご挨拶しなくちゃ」
途端にブッと吹き出して笑い転げたランスと、「そうだよねぇ」と同意してニコニコとビアンカに微笑み掛けているルドルフを前にして、ジャスティンは引き攣った顔を凍らせて固まっていた。
その夜はルドルフの自宅に二人で泊めて貰って、一歳半になったルドルフの愛娘アレクサンドラと嬉しそうに遊んでいるビアンカを横目に、ジャスティンはシャワー後のまだ半分濡れているボサボサの銀髪をボリボリと掻いた。
「可愛いリボンがあるのよ。アリーにって思ったんだけど、きっとビアンカの金髪に似合うわ」
一児の母となっても変わらずに愛らしい顔のエリーにニコニコと微笑まれて、ジャスティンは諦めの境地で「はぁ」と力無く呟いた。
「まぁ『案ずるより産むが易し』って言葉もあるし、行ってみれば何て事ないかもしれないよ」
エリーからホットワインの湯気の立つ木のカップを受け取って、愛妻の頬にキスを返して微笑んでいるルドルフに、ジャスティンは疑わしそうな目を向けてまだ拗ねていた。
「本当にそうなりますかねぇ」
満面の笑みでご機嫌なアレクサンドラと、屈託の無い笑顔を付き合わせて楽しげなビアンカをチラリと横目にして、ジャスティンはもどかしげに頭を抱えて、今日何度目かのため息をついた。
*1……日本語でのこの諺は、英語では『Fear is often worse than the danger itself.』というそうで、直訳は『恐怖はしばしば危険そのものよりも悪い』という意味で、『怯えて腰が引けてるよりも一度やってみろよ、そんなに悪くないもんだぜ』という感じでしょうか。




