第一章 第二話
ジャスティンが不名誉な渾名『ロリコン』と呼ばれているのは、彼の恋人ビアンカ・ワイズがまだ十一歳の少女だからだ。
研修生の紹介の時に、小児科医局長ハワード・ライアン医師が、「ええっと、Mr.ウォレスは、既にMs.ビアンカ・ワイズ嬢と婚約されているそうだから、女子諸君色めき立つ事のない様にね」と、ケタケタと笑いながらジャスティンを紹介したのだ。
程なくして乳幼児健診の為に病院を訪れた、ジャスティンの親友でありロンドン郊外にあるW校の外国語教師ビリー・ローグから、そのビアンカがまだ十一歳だという事がシレッと告げられて小児科医局に知れ渡ったのも、そのためにジャスティンに『ロリコン』のレッテルが貼られる事になったのも全て医局長のあの紹介が始まりだったと、ジャスティンはギリギリと歯噛みしてカレンを睨んだ。
――いつ俺がビアンカと婚約したんだよ。つうか、なんで医局長がビアンカの事知ってんだよ!
心の中で悪態をついても、こうして病棟一の美貌の彼女から慰めの籠った視線で見られている事態は変わらず、寧ろ蔑みでないのが救いかと、ジャスティンはハァと長いため息をついた。
「私は別にあなたを責めてるわけじゃないのよ。性癖は多種多様で、実害を伴わないものならば認められていいと私は思ってるの。ただ小児性愛なら一度精神科を受診したほうがいいかも」
「まだヤってねぇよ!」
思わず口走ったジャスティンは、また顔を真っ赤に爆発させた。
抱くなら大人の女の方がいいと思っている自分は絶対にペドでは無いと確信しているジャスティンは、何をどう説明すれば分かってもらえるのかと、ヤキモキする心境をジタバタと動かす両手で表してみたが、カレンはやるせなさそうにため息をついただけだった。
「あらそう。じゃあやっぱり只のロリコンなのね」
「だから俺はロリコンじゃないっての! あれは、たまたま……」
まだ真っ赤な顔のまま叫んだジャスティンであったが、二の句に困って口篭って黙り込んだ。
「たまたま?」
「……アイツが十一歳なだけだ!」
開き直ったジャスティンは、面白くなさそうに腕組みした。
一方の当事者ビアンカは、聖システィーナ修道院にある寄宿舎の自分の部屋で、ベッドに寝そべって眉を寄せて考え込んでいた。
「……なんとかして会いに行けないかしら」
勿論会いに行きたいのは、ロンドンに居る愛しいジャスティンだ。だが、ジャスティンからは無事に医師免許が取得出来る二年後まで会わないと宣言されていて、気軽に遊びに行く訳にはいかなかった。それも場所が病院なだけに、遊びで行ける場所でもなかった。
現在イングランドを守護する【守護者】はクリス・エバンスで、英領ヴァージン諸島にて十人の子供達だけで取り残されているのを発見されて保護されたビアンカに、その後を受け継ぐ才が存在しているのを見出されたのは、わりと最近の事であった。
その次代の【守護者】を守る事を任じられたジャスティンには、そのために此処聖システィーナ地区に小児科病院を開くという夢があり、その夢に向かって邁進している今は、邪念を持ちたくないという事であろう、ビアンカには会わないと宣言していた。
次代の【守護者】として、実年齢にそぐわない大人びた雰囲気も持つビアンカではあったが、事がジャスティンのこととなると子供らしい小さな胸を痛めて、持て余す感情に狼狽えがちであった。
既に番人の一人として結界を張る能力を持ち【守護者】の片鱗を見せているビアンカにとって、自分もクリスを助けて為すべき役割があるという事を頭では分かってはいたが、初めての恋心に揺れる少女にとって、それは残酷な宣告であった。
「普通に会いにいったら、きっとジャスティン怒るだろうし」
軍にいる間は周りは殆ど男の人ばかりだったけど、病院となれば女性の看護師もいるだろうとビアンカは小さくキュッと痛んだ胸を押さえた。
――綺麗な大人の女の人がいるんだわ、きっと。
自分がまだ十一歳である事がビアンカには疎ましかった。現在の英国の法律では十四歳になれば結婚が可能であったが、しかし自分にはそれを承諾する親権者が居なかった。ジャスティンも承諾無しでも結婚出来る十六歳まで待つつもりであったようだし、それにはまだ五年の歳月が必要だった。
「……早く大人になりたい」
ビアンカは磁器人形の様に大きな蒼の瞳に薄っすらと涙を浮かべ、切なげに呟いた。
「え? ビアンカ嬢のことかい?」
朝の病棟回診で惚けた老医師に付き添ったジャスティンは、何気なくライアン医師がビアンカを知っていた理由を訊ねてみた。
「その、なんで先生は彼女の事を知ってたのかな、と」
クスクスと微笑した医師は、またしてもカルテの束を抱えているジャスティンを付き従えて、病棟の廊下をペタペタと歩きながら、のほほんと言った。
「この春に、聖システィーナ地区の学校検診があってね。その時に彼女から『秋になったら自分の婚約者が病院に来るからよろしく』と挨拶されたんだよ」
ライアン医師の暢気な返答を聞いて、ジャスティンはギリギリと歯噛みした。
――くそ、アイツめ。
元凶はビアンカだったかと、ジャスティンは諦めたように小さく「はぁ」と嘆息交じりに返したが、ライアン医師は気にする風でも無くカラカラと笑った。
「可愛いもんじゃないか。嫉妬は恋愛のエッセンスだからね」
「嫉妬って、アイツはまだ十一歳ですよ?」
前を行くライアン医師の顔を背後から眉を寄せて覗き込みながら、ジャスティンは不満そうに呟いた。
「恋愛感情には嫉妬心や占有願望は存在するものだからね。十一歳ならば、第二次成長期に差し掛かった辺りだから、精神的にはプレティーンと考えると不思議ではない現象だよ。でも」
ライアン医師は、少し眉を寄せた。
「彼女は乳幼児期に極度の栄養不良状態だったそうだが、その所為で身体的発達は遅れているね。今後成長していくに従ってどの様な影響が現れるかが、少し心配だねぇ」
おっとりとした物言いであったが、英国小児科の第一人者である老医師の言葉はジャスティンにも不安を齎した。
英領ヴァージン諸島に僅か十名だけで取り残され、五年の歳月を生き抜いた子供達は皆極度の栄養失調状態で保護されていた。
とりわけ、乳児期からその状態に置かれていたビアンカと一歳上のサイとジェマの双子は、同年齢の子供の平均的な大きさに満たず、身体は未発達であった。その点に於いてもBVIの子供達への継続的な調査と観察は重要だと、ライアン医師はジャスティンを従えて歩きながらポツリと言った。
「婚約者のためにも早く一人立ちしないとね」
「……はい」
否定もせず素直に返事をしたジャスティンは益々顔を曇らせた。
三階の小児科医局へと戻ったジャスティンは、ピンク色の術衣を着込んで、中央の大テーブルの下をごそごそと覗き込んでいる不審げな姿を見下ろして、呆れてため息をついた。
「……アンガス、何やってんだ」
驚いて顔を上げようとしてテーブルに下から頭をゴンと打ち付け、涙目になって頭を擦りながらようやく顔を出した男は、潤みかけた緑の瞳で金髪を撫でながらジャスティンに向かって口を尖らせた。
「カルテの中身をバラ撒いてしまって……」
「ったく。気をつけろよ。中身が入れ替ったりしたら大事だからな」
この男アンガス・エイドリアンはジャスティンと同じ小児科担当の医学研修生で、二十三歳の筈だがまるで十代にしか見えなかった。身長はジャスティンよりも二十cmは低くて華奢で細く、その為に身体に合う術衣が見付からずに看護師用の術衣を着ている有様で、看護師達からは「坊や」と呼ばれていた。
――コイツを見てると雨に濡れた迷子の仔犬を見てるみたいだわ。
涙目を潤ませてしゃがみ込んでいる様は、救いを求めて鼻を鳴らしている仔犬にしか見えず、仕方なくジャスティンもテーブルの下に頭を突っ込んで、散らばった紙を拾い上げてアンガスに「ほら」と手渡したが、殆どがまだ真っ白な紙の束をガサガサと纏め直してファイルに挟んでいるアンガスに「なぁ」と声を掛けた。
「それ、新患か?」
「ええ。小児科外来で要検査になって、さっき入院したんですけど」
「症状は?」
入院と聞いた瞬間、ジャスティンの顔は険しい医師の顔になっていた。
「腹痛と吐き気、倦怠感を訴えてますね。ただバイタルは安定してますが」
「患者の年齢は?」
アンガスが閉じ終えたファイルを受け取ってペラペラ捲り始めたジャスティンにアンガスは目を泳がせて「えーと、十一歳ですね」と答えたが、ページを捲る手の止まったジャスティンは目を見開いて呆然と口を開けていた。
「そういえば……ビアンカ・ワイズって」
思い出したアンガスが口を開いた瞬間にはジャスティンはカルテをアンガスに放り投げて、入口のスライドドアを開けるのももどかしく外へ飛び出していた。