第二章 第五話
纏まった学校検診結果をW校へ持っていかなければならない日が近づいてくると、ジャスティンは腰が落ち着かないソワソワとした気分になり、ペタペタと歩いていても時折物憂げに立ち止まっては「はぁー」と長いため息をついていた。
手ぐすねを引いて待っているロドニーと、また冷たい氷のような視線を浴びせるだろうエドナの顔が浮かんで、やるせない気持ちで一杯のジャスティンであったが、「代わりに行ってくれ」と懇願したアンガスは「その日は実践発表で……」と済まなそうに断った。
研修生であるジャスティン達は時折それまでの成果を発表せねばならず、指導医であるヒックス・ストライド医師も発表に立ち会うとあっては、もうジャスティンには逃げ場は無かった。
「ストライド先生、ちょっと」
三階の小児科医局で、明日診察が予定されている患者のカルテを集めて下調べ中だったジャスティンは、その下調べをジャスティンに任せて悠々と雑誌を広げて読んでいるヒックスの元へ訪れた医師の顔を何気なく見上げて、あれ、と思った。
――誰だっけ? あんなドクター居たっけかな?
長い黒髪をきっちりと縛って細い銀縁の眼鏡を掛けていて、少し伏目がちの黒い瞳と長い睫に何処と無く覚えがあって、色の薄い唇と控えめな化粧で最初気付かなかったが、思い出した時「あっ」と声が出そうになって、慌てて口を手で覆ってジャスティンは驚愕を飲み込んだ。
余りにも清楚に変わっているので気付かなかったが、彼女はあのカメリア・オハラ医師に間違いなかった。
質素な化粧でも十分に美しい彼女は、大胆な衣装に羽織っていただけの白衣もきっちりとボタンを留めて、病院にはそぐわない高いヒールの靴も、歩き易そうなローヒールに変わっていた。
「では、よろしくお願いします」
手を挙げたヒックスに微笑み掛けたその笑みも、妖艶さの欠片も無く穏やかで、口に手を当てたまま目を見開いているジャスティンに気付いて静かに微笑んで頭を下げたカメリアに、ジャスティンは狼狽して口を押さえたまま立ち上がり、気付いて慌てて手を離してから直立不動の姿勢から深々と頭を下げた。
ヒックスが席を外した隙に、実践発表の準備で数日前からPCに齧り付いて離れないアンガスの肩を激しく突付き、ジャスティンはヒソヒソと耳打ちした。
「彼女……随分変わったようだが」
「え? オハラ先生のこと?」
話し声で来ていたのに気付いていただろうに、全く顔を上げないアンガスに何か物言いたげな視線を送っていたカメリアの寂しげな顔を思い出して、ジャスティンはうんうんと頷いた。
「少し自分を抑圧してみればどうですかって言ったんです。日常で自我を解放し過ぎてるのが、『イけない』原因なんじゃないんですかねって。それに僕、清楚なほうが好きですって」
サラッと言ったアンガスの大胆な言葉にジャスティンが赤面した。
あれほど妖艶な肢体を持ちながら誰と寝ても満足出来ない自分への苛立ちがああいった行動に出させていたんだと、アンガスは首を竦めてクスッと笑った。
ひゃんひゃん鳴く仔犬のような顔をしているくせに、あの自意識過剰だったカメリアをこうまで変える手管の持ち主とは思えずに、飄々としているアンガスの横顔を眺めてジャスティンは呆れ返って言葉も出なかった。
「本当にお前、清楚なほうが好きなのか?」
どうにもそうは思えなかったジャスティンが突っ込むと、案の定アンガスはニコニコと「いいえ」と言った。
「別に何でも。僕、来るもの拒まずですから」
嘗て自分の親友ビリーがそうだったなと思い出して、苦い思い出と共にジャスティンは「ケッ」と口を尖らせた。
「で……効果はあったのか?」
そこは気になったジャスティンがこっそりと囁くと、アンガスはにっこりと笑った。
「ええ。彼女も長年の悩みが解決してハッピー、僕も楽しみが増えてハッピー、ウィンウィンですね」
だがアンガスは、カメリアと恋人になるつもりはないらしかった。病棟内では馴れ馴れしくしないで下さいねと言ってあるんですと、素っ気無く言ったアンガスの言葉の冷たさに、カメリアの縋る様な視線を思い出してジャスティンはため息をついた。
いよいよ追い詰められて開き直ったジャスティンは、検診結果を持って訪れたW校で、両手を顔の前で構えて、軽いフットワークで自分の前に立ち塞がったロドニーに向かって、気後れしないように背を伸ばして堂々と言い放った。
「あれは嘘だ」
遠巻きにして此方を見ているエドナ達にも聞こえるように大声で話すジャスティンの堂々とした態度に、ロドニーは一瞬鼻白んだ顔をしたが、憤りを露にペッと唾を吐いた。
事実と若干異なるのは本当の事だったし、何よりも声を大にして言いたいことがジャスティンにはあった。
「病院で立つ噂は、九十%の誤解と十%の悪意で出来ている」
「はぁ?」
呆気に取られたロドニーが軽快にステップを踏んでいた足を止めてポカンと口を開けると、ジャスティンは「コホン」と咳をして、キリッと顔を上げた。
「俺は至ってノーマルだ。ただ俺の『絆』の相手がビアンカだから、俺は彼女が大人になるのを待ってるだけだ」
「なんだよ、それ」
「お前が信じようと信じまいとそれは構わない。だが俺は託されたんだ。ビアンカを守れと」
北欧の森で、主と正対した時の話をゆっくりと聞かせると、まだ臨戦態勢は解かなかったが、ロドニーはじっと耳を欹てて聞いているようであった。
「だから俺は軍を辞めたんだ。軍でももっとやりたい事もあった。班長殿をお守りしたかった。復興へ向け精一杯頑張っている人達を応援したかった。俺に期待してくれている人達の、その期待に俺は応えたかった」
話しながらジャスティンの脳裏には、出会った人々の顔が浮かんでいた。気さくな人々、懸命な人々、悲しみも喜びもそこにあった。
「けどな、そんな俺自身の事よりも、俺にとってもっと大切なんだ。ビアンカが」
何時の間にかロドニーも手を下ろしていて、じっとジャスティンを見上げていた。
「ビアンカを守る為に俺は自分の望みを捨てた。いや、俺の一番の望みがビアンカになったんだ。ビアンカが今度は聖母になるんだ。バーグマン伍長の代わりに」
美しく成長したビアンカが守護の光を発する場面を思い浮かべて、それは、どれほど気高く美しいだろうかとジャスティンは思った。俺は、その彼女の光の影になるんだ、と思った。
「俺はぶれない。俺は変わらない。お前が今までビアンカを守ってきたように、これからは俺がビアンカを守る。お前はエドナを守らなきゃいけない。言ったろう? エドナに大怪我は禁物だ。幸い、エドナと同じ血液型の奴が見付かったが」
「え? 本当か?」
無頓着なロドニーも、それは流石に気にしていたらしく、朗報に瞳を輝かせた。
「この間、俺と一緒に学校に来てた仔犬みたいな奴がいただろ? アイツがエドナと同じ血液型だ。双方、ウチの病院の血液バンクに登録した。何かあったら互いに助け合う。その準備も始めた」
これからは二人とも年に数回ずつ、貯血をする事になるだろうとジャスティンは説明した。
「そうやって貯めた血で、自分で自分を助ける。怪我もそうだが、エドナはもう十八歳だ。やがて妊娠出産するだろう。その時のためにも」
それを聞いてロドニーはボッと顔を真っ赤に爆発させた。
しどろもどろになって真っ赤な顔を逸らしているところを見ると、まだそんな段階には達していないようだなと、ジャスティンは内心でクスッと笑った。
「だから、お前もエドナを守る事を一番に考えろ。ビアンカは俺に任せてくれ」
もうすっかり警戒は解いて、真っ直ぐにジャスティンを見返しているロドニーの蒼の瞳を、ジャスティンも目を逸らさずに見返した。
「……分かった」
長い沈黙の末に右手を差し出してきたロドニーの手を握り返して、ジャスティンは「おう」と明るい笑顔になったが、ギリギリと手を握り潰そうとするロドニーの握力に、ジャスティンもムキになって握り返して、互いに顔を近づけ合った男達は険しい顔で睨み合った。
「でも、浮気したら殺すぞ。ジャスティン」
「お前もな。あんまりエドナを泣かすなよ」
そこでブッと吹き出した二人は互いの肩をバンバンと叩き合って、呆れたエドナが首を竦めているのも構わず、ゲラゲラと肩を組んで何時までも笑い合っていた。




