第一章 第十一話
そもそも此処は病院だし、扉の向こうはナースステーションだし、ジャスティンが本当にそんな事するわけがないと思ってはいても、今迄とは全く違う、頭の芯がクラクラとする激しいキスから思わず逃れようとビアンカは顔を背けたが、大きな手で頬を押さえられて顔を向き直させられて、唇を塞がれてまた小さく体を震わせた。
これまでは、小鳥が啄ばむような唇を軽く合わせるだけのキスが殆どだっただけに、繰り返し何度も唇を重ねられて、無理矢理こじ開けられ差し込まれた舌で蹂躙されるキスに、小さな頭は混乱してガンガンと大きな音を立ててビアンカに恐怖を齎した。
その混乱の中で、ジャスティンの大きな手が自分の胸をゆっくり撫でているのを感じて、ビアンカは一層身体を強張らせた。
まだ膨らみの無い胸を滑る手の感触は、想像していたような甘い香りを伴うものではなく、背筋を這い上がる悪寒はまだビアンカには快感を齎してはいなかった。
「嫌っ!」
思わず叫んでジャスティンを力任せに突き飛ばしたビアンカは、毛布を身体に纏って瞳に涙を一杯に浮かべ、荒い息で肩を震わせた。
小さなビアンカに突き飛ばされたぐらいで動じる筈の無い屈強なジャスティンであったが、あっさりと体を引いてボサボサの銀髪を撫で上げ、怯えた瞳で見上げているビアンカを見下ろして、小さくため息をついた。
人並み以上に精神と身体のバランスが取れていないビアンカが、頭でっかちであるのはジャスティンには分かっていた。それを思い知らせるための荒療治であったが、やり過ぎたかと、自分を恐怖の瞳で見上げているビアンカにやるせなさそうに息をついてクルリと背を向けた。
「分かったろ。お前にはまだ早いんだ。分かったら、帰れ」
もう彼女は自分に逢いたいと言ってくれないかもしれないという後悔がジャスティンの頭に浮かんだが、それも仕方ないかもしれないと思った。
――もしビアンカが他の誰かと結婚することになったとしても、俺が守るのには変わらない。
その約束を放棄するつもりは無かった。ビアンカとイブの二人を終生守る事が、自分に課せられた天命なんだからと、ベッドに投げ捨てられたままのカルテのファイルを手に取ったジャスティンは、振り返らずに部屋を出ようとした。
「待って、ジャスティン、待って」
だが、扉の取っ手に手を掛けようとした時、背後から抱き付いてきたビアンカに引き止められて、予想をしていなかった展開に狼狽したジャスティンは、涙声でしがみ付いてくるビアンカを振り返り、まず傷を案じて腰を落としてビアンカの左わき腹の様子をチェックした。
「ビアンカ、急に起きちゃダメだ。傷が開いたら」
何よりも先に医師の顔になったジャスティンの精悍な顔を見て、ビアンカは潤んだ瞳から零れ落ちる涙に濡れた頬でジャスティンに訴えかけた。
「ごめんなさい、ジャスティン。ごめんなさい」
ボロボロと涙を溢すビアンカを受け止め、ゆっくりと頭を撫でてやりながらジャスティンは優しく微笑んでいた。
「泣くな、ビアンカ」
「分かってたの。貴方を信じなくちゃいけないって分かってたの。でも私はどうしようもなく子供で、貴方に釣り合わなくて、それで不安で、不安で」
堰が切れた様に溢れ出す感情を、こみ上げる涙で途切れ途切れに話すビアンカの言葉を聞いてやりながら、ジャスティンは「うん、うん」と頷いていた。
「ビアンカ、分かった。だからもう泣くな」
まだ涙の零れるビアンカの頬を拭い、ジャスティンは屈み込んだままビアンカの蒼の瞳を覗き込んだ。
「俺が悪かった。俺は自分の事しか考えてなかった。お前と居るとどうしても自分の邪念が抑えられなくなるだろうって、俺の都合でお前を遠ざけようとした俺が悪かった」
小さくヒックヒックとしゃくりあげているビアンカの頬を撫でて、ジャスティンは「でもな」とそっと囁いた。
「それは俺がお前を好きだからだ。お前はまだ子供だ。俺は本気でお前を抱きたいけど、まだお前が受け入れられないのを分かってる。それを自分で堪えようとしないで、お前が傍に居なければいいんだと、俺は自分勝手な事を考えていた。お前の気持ちも考えないで。ごめんな、ビアンカ」
「ジャスティン……」
「だけど、分かったろ? お前の体はまだ準備が出来てないんだ。俺は待つ。お前が準備出来るまで待つ。だから俺を信じてくれ」
「うん……うん……」
もう一度しがみ付いてきたビアンカを受け止めて、流れる金髪に顔を埋めたジャスティンは、あの日、暴漢から救った時のビアンカの甘い香りを思い出して、独りでに微笑んでいた。
その後、そっと何時ものキスを交わした二人から、あの南国の花の甘い香りが辺りに漂って、季節外れの花の香りにみんな戸惑っているだろうなと、病棟内で怪訝げに顔を見合わせている看護師達の顔を思い浮かべて、ジャスティンは内心でクスッと小さく笑った。
「彼女は順調なの?」
ビアンカが退院してからの初めての通院の日に外来でヒックスとビアンカを診察したジャスティンは、その日の午後、小児科病棟のナースステーションで入院中の子供達のカルテを眺めながら、話し掛けてきたカレンに「ああ」と笑顔を向けた。
「次の診察の日に抜糸だな。バイタルも安定してるし、貧血もない」
「そう、良かったわね」
何気なく呟いたカレンだったが、「そうそう」とジャスティンを振り返った。
「ガイア2100に先週新しくレストランがオープンしたんだって。知ってた?」
「んあ? そうなのか。そこまで経済は回復してきたのか」
興味なさげにカルテから目を上げないジャスティンの背後から、ひょっこりと顔を出してカレンはクスクスと笑った。
「私、久しぶりにローストビーフが食べたいの」
「勝手に一人で食ってこいよ」
素っ気無いジャスティンに、カレンは「ふーん」と目を細めた。
「医学研修生が、病棟内で十一歳の児童に手を出そうとした事実が明るみになってもいいのかしら」
「へ?」
唐突な発言に振り返ったジャスティンは、不敵にフフンと笑っているカレンの顔をマジマジと見ていたが、やがて冷たい汗が自分の脇を流れていくのを感じて口を開けたまま黙り込んでいた。
それがカレンの、自分を振った男への精一杯の仕返しだとも気付かずに、ジャスティンは軽くなった財布に切なげに空を見上げた。
「次の休日には聖システィーナに行こうと思ってたんだけどなぁ」
廊下で窓辺に立ち、空を見上げてため息をついたジャスティンは、後ろからバタバタと走ってきたヒックスに背中を思いっきりど突かれて、「おっと」とバランスを崩して転び掛けた。
「おい、ひよっ子! ボヤボヤしてるんじゃねぇよ! ER室だ。三歳男児、熱傷だ!」
「い、了解しました!」
この言葉を発する癖は終生抜けないだろうなと、ジャスティンは思わず出てしまう言葉に苦笑いを溢したが、医師の顔に切り替えて、白衣を翻して走るヒックスの後を追って、全力で駆け出した。




