第一章 第十話
ガラス窓を叩く秋の風の向こう側で、まだ戻ってくる人の気配の少ないビル群を横目に、カルテのファイルを手に機嫌良さげに歩くジャスティンの足取りは軽かった。
ビアンカが入院して一週間が過ぎていた。持ち直した彼女は翌日には一般病棟に移り、その日の午前中には目を覚ました。
回復に向かう身体はベッドからも起き上がれるようになり、今日明日中には歩行訓練を始めようかと頭の中で計画を練りながらも、ついつい鼻歌も混じるジャスティンにとって、彼女から生命の危機が去った事が何よりも嬉しかった。
まだナースステーション脇の個室に居るビアンカの元に「よぉ」と明るい笑顔で現れたジャスティンを見て、ベッドに寝そべっていたビアンカが嬉しそうな顔で起き上がった。
「ジャスティン!」
「ああ、寝てろ。寝てろ。これから回診だからな」
ビアンカの足元にカルテを投げ捨てたジャスティンは、まだ繋がれたままの点滴をチェックし、心拍計の数値をチェックしてから、ビアンカの手を取って腕時計に目をやってブツブツと何事か呟いていたが、「じゃあ、傷口診るから」と毛布を剥いでビアンカの病衣に手を掛けたところで、頬を真っ赤に染めたビアンカが戸惑いと共にジャスティンの手を押し留めた。
「何だよ」と怪訝な顔になったジャスティンを見上げ、ビアンカは狼狽えた顔で「だって」と瞳を泳がせた。
「診察だぞ? 何照れてんだ。傷が診れないだろうが」
「ストライド先生ならいい」
不満な顔で口を尖らせたビアンカを見て、今度はジャスティンが口を尖らせた。
「なんで俺じゃダメなんだよ。俺だって一応医者だぞ?」
「……一応だもん。ストライド先生じゃないと嫌」
「って、ナンだよ!」
顔を赤らめたままプイッと横を向いたビアンカの脹れた頬を見ながらブツブツと文句を溢したジャスティンだったが、女性に縁遠い人生だった彼に女心を理解しろというほうが無理であった。
「そりゃ、確かに俺はまだ研修生だけどさ」
小児科医局で切なげにため息をついてテーブルに突っ伏しているジャスティンに、アンガスは今週末に提出の迫っているレポートを纏めながら、PCへ向けた画面から目を逸らさずに言った。
「ストライド先生の腕は確かですもんね」
「悪かったな。俺はどうせひよっ子だよ」
拗ねた顔を上げてブツブツと言っているジャスティンを見向きもせず、アンガスは書きあがったレポートを手にフゥと息をついて、カップのお茶を飲んだ。
「でも、稀血者の存在が分かったのは僕にとっても大収穫でした。僕もAB型でRh‐D‐なんですよ」
何の気なく言ったアンガスの一言を聞いて、ガバッと起き直ったジャスティンは「本当か?」と叫んでいた。
「ええ。いざという時には、彼女にお願いしようかなぁと」
暢気に呟いたアンガスの襟元を締め上げ、ジャスティンは怯えた小動物のように震え始めたアンガスにニヤリと不敵に笑った。
「逆だ。エドナに何かあったら、お前の血残らずもらうからな」
「ひえぇ」
フルフル震えているアンガスを睨んで、ジャスティンはケラケラと楽しそうに笑った。
グングンと回復するビアンカは、翌週にはもう歩けるようになり、その週末には一旦退院する事となったが、もう十分回復したというのに、ビアンカは帰りたがらなかった。それは勿論、此処に居れば毎日ジャスティンに会えるからだ。休日でも必ず顔を見せてくれたジャスティンとの時間を惜しんで、ビアンカは「まだ帰らない」と駄々を捏ねた。
「ビアンカ、病院は遊び場じゃないんだ」
また小言が頭をもたげてきたジャスティンの険しい顔を見上げて、ビアンカは潤んだ瞳で、それでも抵抗するように口を尖らせた。
「貴方が浮気しないって約束してくれるなら」
「阿呆か。俺は此処で遊んでるんじゃないんだ。そんな事してる暇なんかねぇよ」
なんで信用してもらえないのかと、苛立つジャスティンの口調も荒くなってきた。
「だって此処は綺麗な女性が多いじゃない」
「心配いらねぇよ。此処の女はみんな俺の事『ロリコン』って馬鹿にしてるからな」
たった一人で一気に八百ccもの輸血を行って彼女を助けた事で、最近付いた『冷たい』が取れたジャスティンだったが、『ロリコン』と呼ばれていることには変わりはなく、「ケッ」と面白くなさそうに横を向いた。
「そんなことないわ。カレンはきっとジャスティンのこと好きだわ」
ビアンカは、優しくて穏やかなカレンの顔を思い浮かべていた。
ビアンカは【守護者】としての能力で、カレンがジャスティンに向ける仄かな想いに気付いていた。一見辛らつなようで、その根底にはジャスティンへの深い想いが窺えて、二人が並んで立っているのを見ると、精神的にも肉体的にもお似合いのカップルに見えて、ビアンカは密かに小さな胸を痛めていた。
「阿呆か。俺は毎日アイツにいびられてんだぞ」
きっとジャスティンは、今までもこうして想いを寄せられていても気付いていないだけだったんだわと、鈍い男の不貞腐れた横顔を見上げてビアンカはため息をついた。
「とにかく、もう通院でいいんだ。明日には退院してもらうぞ」
立ち去り掛けたジャスティンの腕を掴んで、ビアンカは蒼の瞳でじっと見上げた。
「……キスして、ジャスティン」
「ば、馬鹿か。病院内だぞ、ここは」
ボッと火をつけたように真っ赤になったジャスティンだったが、思い直して振り返ると、ベッド上のビアンカに顔を寄せてチュッと軽いキスをした。
「……こんなのじゃなくて、ちゃんとして」
顔を離そうとしたジャスティンの腕を押さえて、ビアンカは真顔でマジマジとジャスティンを見上げた。
「お前な……」
我儘にも程があると怒りを爆発させかけたジャスティンだったが、自分の腕を掴んでいたビアンカの細い腕を掴んで、逆にビアンカをベッドに押し倒した。
「そこまで言うなら抱くぞ、いいな」
ジャスティンの本気の眼差しを見て、ビアンカは小さくビクッと体を震わせた。




