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Virgin☆Virgin  作者: N.ブラック
第一章 俺の彼女は十一歳
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第一章 第一話

 薄暗い鉄製の階段を駆け上がる足音は軽快なパタパタという音を立てていたが、「おっと」という声と共に足を滑らせたのかズルッという音と踏み止まって堪える音が交錯して、立ち止まった足音が消えた後には、無音の階段に冷えた空気の流れる気配と「フゥ」という安堵の息が漏れ聞こえた。

 分厚いカルテの束を落とさないように再びしっかりと抱え直して、緑色の術衣(スクラブ)の上下に体を包んだジャスティン・ウォレスは、足元のサンダルを見下ろしてブツブツと文句を言った。

「ったく。軽いのはいいんだが走り難いんだよな」

 それまでの彼の足元を支えていたのはハイカットの軍用ブーツで、常にそれで全力で走ってきただけに、サンダル履きの足元が心もとなく思えてジャスティンはため息をついた。




 新暦五年(旧西暦二千百十年)の秋、ジャスティン・ウォレスは予定通りにロンドンにある国立中央病院付きの医学研修生として、勉学と実践に明け暮れる日々を始めていた。

 この年の一月にスコットランド陸軍第九十九AAS大隊第二中隊S班を辞めて、小児科医を目指して奮闘中のジャスティンにとって、日中は外来患者を診る医師達のサポートと病棟患者の世話、そして夜は夜で講義や自習と寝る間も無い過酷な日々ではあったが、軍で鍛え上げた体力と精神力で、今日もこうして階段を走っているわけであった。



「遅ぇよ、ひよっ子」

 三階にある小児科病棟の医局(ドクターズルーム)に駆け込んだジャスティンの眼前で、ケーシー型の白衣のボタンを外して着崩し、ボサボサの茶髪をボリボリと掻いている、医者とは思えない無精な男は、ジャスティンを深い緑の瞳でジロリと睨んだ。

「済みません!」

 上官命令は絶対服従の軍隊育ちのジャスティンは素直に頭を下げ、運んで来たカルテの山を男の前のテーブルの上に置いた。

「まぁ、もう電子カルテで確認したけどな」

 ぶっきらぼうにボソッと呟いた男は、その言葉に呆気に取られているジャスティンに見向きもせず、目の前のカルテの山から一冊を無造作に取った。


 

 旧西暦二千百一年に起きた世界崩壊以降、まだ大学組織は再開を見ていない此処英国では、圧倒的な医師不足の現状に対応する為に、英国の基幹病院である国立中央病院に医学研修生制度を導入して、迅速な若手医師の育成に取り組んでいた。


 二十七歳のジャスティンは最年少二十三歳からなる十名の研修生の中でも上から数えたほうが早い年齢であったが、遅咲きながらも知識や度胸は十分な新米を顎でこき使っているのが、小児科医局の主任医師であるこのヒックス・ストライドであった。

 凡そ小児科医とは思えないボサボサ頭に無精髭、無愛想な顔付きというのは、案の定子供達からは怖がられていて、看護師( ナース)達からも「先生(ドクター)、せめて笑ってください」と常々文句を言われているのだがそんな事には全くお構いなしで、同じようなボサボサ頭ではあるが人懐っこい笑顔には定評のあるジャスティンは、なんでこんな男が小児科なんだと、そう思う事も度々であった。


「で、この患者なんだが」

 ヒックスは手にしていたカルテを無造作にジャスティンに投げて寄越した。

「体を折る腹痛に吐き気ですか。熱は無いが白血球値が一万超え、となると、虫垂炎( アッペ)ですかね」

「正解。四歳児の虫垂炎の手術( オペ)だ。目を掻っ穿ってよく見とけよ」

 ヒックスは徐に立ち上がると、カルテを手にしたままポカーンとしているジャスティンの肩をポンと叩いてさっさと歩き出し、部屋を出る際になって振り返って、まだ事態を飲み込めず立ち尽くしているジャスティンをジロリと睨んだ。

「さっさとしろ。蜂窩織炎(*1 フレグモ)だ。とっとと切らないと腹膜炎(パンペリ)になるぞ」

「あ、了解しました( イエスサー)!」

 我に返ったジャスティンが思わず身体に染み付いた返答を返すと、ヒックスは呆れた目を細めた。

「お前なぁ、此処はもう軍じゃねぇんだ。おら、行くぞ」

 同じサンダル履きだというのに軽快にスタスタと先を行く先輩の後を追って、ジャスティンもパタパタと廊下を駆け出した。


 

 虫垂炎の手術に立ち会ってぐったりとした身体を、医局の中央に置かれた大きなテーブルに投げ出しているジャスティンの目の前に唐突に青いマグカップが置かれて、顔を上げたジャスティンの前で看護師が一人クスクスと笑って立っていた。

「ああ、カレン、ありがとう」

「虫垂炎の手術は初めてだったの?」

 病棟の看護師の一人であるカレン・ホッグスは、ジャスティンと同い年ながらも勤続五年の中堅で聡明さと柔和さを併せ持つ有能な看護師であったが、その清廉な雰囲気で研修生からも人気が高く、彼女の事を噂する同期が多い中で、ジャスティンは改めて目の前のカレンをマジマジと見上げた。

 茶色の長い髪は綺麗にシニヨンに纏められ、淡いピンクに大きな花の刺繍が施されている術衣は小児科専用のもので、長い睫の下の琥珀色の瞳はビリーと同じだなと、両手の中のマグカップの温かい紅茶の香りを味わいながら、ジャスティンは「ああ」と答えた。

「流石に俺ん家では虫垂炎の手術はやらなかったしな。そん時にはロイヤル・コールヒルへ親父が付き添って転送してたから」

「お父様も小児科だったわね。ノーマン・ウォレス医学博士」

「ああ」

 ジャスティンの父ノーマンは、故郷のアバディーンの個人病院で小児科医をしていた。母オリヴィアが産婦人科医でアバディーンの産科小児科医療を一手に担うウォレス病院は此処ロンドンでも結構名の知れた存在であった。

「あんなに優秀な見本を目の前にしながら、寄り道とはね」

 カレンは琥珀の瞳を細めてクスッと笑った。

「色々あったんだよ」

 両親の態度を誤解した事から反発して海軍に入ったとは言えず、ジャスティンは誤魔化すように少し剥れた口を尖らせた。

 そんなジャスティンを斜に見下ろして、マジマジと見入った後でカレンは首を傾げてため息をついた。

「いい男で屈強な元軍人で、それなのにロリコンとはねぇ」


 途端にブッとお茶を噴いたジャスティンはガバッと立ち上がって、少し顔を引いたカレンを睨みながら顔を寄せて、真っ赤になった顔で叫んだ。

「俺は、ロリコンじゃねぇ!」

脚注

 *1 蜂窩織炎……化膿性の炎症。虫垂炎の症状の段階の一つにもなっている。

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