エンドレス
暗闇。
否、眼の見えなくなった僕にとって、明るさなど概念上のものでしかない。ただ単に、僕の脳の中にある、記憶が暗闇と感じているだけなのだ。いわば、電波の届いていないテレビみたいなもの。僕の眼は壊れてしまっている。
壊れているのは眼だけじゃない。
僕の鼻は何一つ情報を寄こさないし、口はあるのかないのかも解らない。腕を幾ら振っても、何処にも触れることはなかった。というよりも僕の頭の中で腕を動かすイメージをしても、腕が動いている感覚がないのだ。
一度、手で自分の顔を触ってみようとしたことがあった。右手を持ち上げ、左の頬を撫でるイメージをしたけれど、それは失敗だった。触れているはずの頬にも、腕にも何一つ感覚が無かったのだ。腕を強く押し付けてみても変化はない。
僕は自分の腕がそもそも有るのだろうかと疑った。腕だけじゃなく、僕の身体全体の存在が、僕には感じられなかった。立っているのか、寝ているのか、或いは何所かに漂っているのかも分からない。熱くもなく、寒くもない。痛みもない。要するに僕の感覚が失われていたのだと思い至った。
世界に僕がいるという、唯一の証明は、ずうーっと、定期的に耳に入る電子音だった。この無表情な音が、まだ僕が生きていることの証なのだ。つまり、五感の内、視覚、触覚、嗅覚、味覚の四つを僕は失っているようだった。
規則正しく鳴り響く電子音。僕はこれに聞き覚えがあった。テレビドラマやなんかの病院のシーンに鳴っている物、よく知らないけど病気の人の心拍か何かを測っていて、シリアスなシーンには必ずと言っていいほどある音だ。
この音があるということは、僕は病院に寝かされているのだろう。何故だかは知らない。何故だろう、何があったのだろうか?
僕には何も思い出せない。そもそも、本当に病院に寝かされているのかすら、僕には判断できない。電子音だけからの連想にすぎないのだから。しかし、その連想よりもしっくりくる場所を僕は思いつくことができないでいた。僕の中で、すでに自分が病院のベッドで寝かされている、ということで決まっていたのだ。頭の中の少数の僕はそれに反対して、別の居場所を模索していたけど、大多数は、やっぱり消毒液臭いのかな、などと視ることのできない病室に思いを馳せた。
この電子音からわかることは、二つある。僕が居るのは個室であることと、僕は命に関わる状態にあったということだ。二つ目については、眼が見えない、身体が有るかどうかすら分からない状態なので当然だ。
もしかしたら、もう死んでいると思われたかも、という考えが浮かび、僕はすぐに打ち消した。あの電子音が鳴っていることは、僕の心臓が動いている証拠なのだった。もし、あの電子音が途切れず、一本の音になったとき、僕は死ぬのだ。そう思い僕は規則正しい電子音に耳を傾ける。
リズムが崩れ、一筋の音になる瞬間を今か今かと、待った。
*
白い線が黒いアスファルトの上を流れ去ってゆく。それは見えたと思うと途切れ、また次の線が表れて、まるで一本の線になっているみたいで蛇みたいにうねっている。白くてどこまで、気の遠くなるほど長い蛇だ。僕は高速で走る車の窓越しに、その蛇を眺めていた。
蛇は道路の中央に鎮座して、僕の乗った車は沿うようにはしっている。運転しているのは隣にいる僕の母親。最小限の明かりしかない暗い道路を、鹿爪らしい顔でハンドルを握っている。その顔は今、自分が置かれた状況――暗い夜道を走らなければならない――を恨んでいるかのようなで――要するに機嫌が悪い為――、僕は大人しく外を眺めていた。
外と言っても夜の高速道路なんて特に見る物はないから、一番興味の持てそうな白線を眺めていたのだ。
辺りに車はいない。
僕は一心不乱に白線を見続けた。
白い蛇は通り過ぎたとたんに、一本の短い線に途切れていく。その光景がサイドミラーに映っていた。下を見続けることに飽きた僕は、次にサイドミラーの白線に切り替えた。
鏡に映る白線はすぐに遠ざかり、縮んで横長になっては消えていく。一、二、三、僕は消えていく蛇の欠片を一つ一つ数えていった。一秒よりも少しだけ速いテンポみたいだ。
けれど、この単純な遊びはすぐに終わってしまった。道路は右カーブになったので、サイドミラーには乗っている車しか映らなくなったのだ。緩やかでその分長いカーブでなかなか終わりが見えなかった。僕はもう一度、下の蛇の尾に目をやるが、すでに飽きたそれに眺めるほどの魅力はなく、早くサイドミラーの蛇を見たかった。
カーブが終わったと思えば、また次のカーブが現れる。僕は焦らされながらジッと進行方向を見詰めて待った。時々、母の様子も伺った。車線変更でもされたら終わりなのだが、母にはそんな気配はなかった。
ようやく左カーブが正面に見えてきた。車はあっという間に、そこに入っていく。
僕は待ってましたとばかり、サイドミラーを凝視した。すると、そこには予想もしないものが映っていた。
二つの大きなライトが眩しい光を放ち、緑や紫で無数の小さなランプでデコレーションされたトラックがそこにはあった。蛇の欠片たちは次々に強烈な光に呑み込まれて消える。それも蛇が 現れては呑み込まれるまでの時間が、少しずつ縮んで来ているようだった。
トラックはもの凄い勢いで接近していた。そのおかげで蛇たちが光に呑まれているのではなく、トラックの車体と道路との間に入っているのだと分かって、僕は違和感を覚えた。トラックは道路中央に伸びる白蛇を跨いで走っていたのだ。
僕は後ろから迫る異常を母に知らせようと思ったが、遅かった。
ズン、と車に衝撃が響き、背後で金属同士が擦れるいやな音が聞こえてきた。
異常に気付いた母は何とか避けようするものの、すべてが遅かったのだ。僕らの乗った車は、大きなトラックにはボールを扱うように軽々と転がった。
横倒しになって、回転する。
何かが爆発して白っぽいものが、僕を押しつける。
ガチャガチャと車の中、外で鳴り響く。隣の母も悲鳴を上げている。
回転する。
もう、蛇なんて見えない。
轟音が世界を満たしている。
苦しい。早くこの回転が止まってくれることだけを願った。
*
ピッ、ピッ、ピッ、聞きなれた電子音が不意に蘇った。
真っ暗な世界に浮かぶ僕を無機質な音が満たしていた。もはや、暴力的な轟音は聞こえず、金属が爆ぜ焦げる嫌な臭いもしなかった。身体を振り回す衝撃もその苦しみでさえ消え失せ、記憶は崩れ、僕の手の届かない場所に流れ始めていた。
しばらくすると、明確な印象を再び思い描くことはできなくなった。
電子音が聞こえた後の、怖いものを見たという印象と断片的な記憶だけが僕の頭の中に残っているだけなのだ。それはまるで、眼を覚ます直前に見ていた夢のように霞み、揺らぎ、意識する端からリアリティを失っていった。
僕は夢を見ていたのだ。眠った感覚は全くないけれど。夢の中で母と共に車で走っていたのだ。そして後方から迫るトレーラーいとも簡単に弾き飛ばされ、絶叫マシンに乗っているような感覚を味わった。
あれは現実に起こったことなのだろうか?
ふと、疑問が浮かんだ。あの「事故」が僕の身を襲ったのだろうか? 現実に。僕と母を。それならば、今のこの状態も納得いくような気がした。僕は交通事故にあい、そのせいで五感のうちの四つを失ってしまった、ということなのか?
母は一体どうなったのか。僕と共に事故にあい無傷ではないだろうから、一緒の病院に居るのだろうと考えた。
その時、微かだがカタカタと物音がした。僕の耳に無表情な電子音以外が届いたのは久しぶりのことだ。ペタンペタンと気の抜けるスリッパの音が静かに響いた。スリッパは少なくとも四通りの音を発していた。四本足の動物がスリッパを履いていない限り、少なくとも二人の人間がこの部屋に入ってきたということだ。彼ら(あるいは彼女ら)のスリッパの音は僕の方へ近づいてきた。再びカタカタと音がして空気の抜けたバウンドしないボールのような気の抜けた音が一度だけした。
「今は安定していますが、まだ昏睡状態が続いています」硬い声が僕の耳に届いた。
それは部屋中に響く電子音ほどではないにしろ、死刑宣告のように感情が押し殺された冷たい声だった。僕でない誰かに発せられた言葉だろうと見当はついたが、それでも僕は戦慄させられた。はっきりともはや手の打ちようもないと、声が語っていたからだ。
その極限まで感情の排除された声は、どれほどまで悪い状態かをもう一人に事細かく説明していた。声の主はおそらく医者だろう。時折、専門用語が入って僕には理解できないことがあった。でも、きっと好きで、こんなことを言っているのではないのだろうと思った。それが声の固さに出ているのだ。
「結論を申し上げますと」
声はそう言って、一拍置いた。
「タカシくんの意識が戻る可能性は大変低いと考えられます」さっきより一層低い声で言いきった。
「……タカシ……」すすり泣くような声で男性がつぶやいた。
男性の声は僕のよく知る人物、父の声そのものだった。そして二人から発せられた名前『タカシ』は僕の名前だ。
その間も無表情な電子音は鳴り響いて、ドラマのワンシーンのような演出をしていた。
*
247、248、249……262,263、264……283、284、285……はぁ、僕は溜息を吐いた。尤も気分的なものだけど。
僕は一つの音に集中せていた神経を解き放ってやる。するとまき散らしたビー玉みたいに拡散して、あるものは虚空の彼方まで行ってしまいそうになる。初めは飛んで行ったきり帰ってこないんじゃないかと不安に思ったけど、結局、何も集中していないときは少なく、集中している時は沢山集まってきたのだ。さっきみたいに、音の回数を数えるときみたいに。
それにしても285か。たった四分四十五秒。数えていた時は途方もない時間に感じたがあっけない。学校の授業なら前置きが終わったところだろうか。カップ麺だとちょっと長すぎて開けたら残念なことになっていそうだ。
でも、その程度。うんざりする。
僕に時間の長さを思い知らせてくれたのは、今もカチッ、カチッと生真面目に時を刻んでいる時計だ。やっぱり人間は機械に敵わないと思う。時計はそんな僕など見向きもしないで針を動かし続ける。ここまで来ると律儀とか真面目とかを通り越して不気味だ。病院の自己主張の激しい機械が懐かしく思えてくる。
読んでいただいた方へ
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