開店の朝
時間の単位
[一時]
いっとき。約二時間
[半時]
はんとき。約一時間
[小半時]
こはんとき。約三十分
開店初日、いつものように夜明け前には目が覚めた。
洗いざらして柔らかくなった麻のシャツと古着屋で買った長いスカートに着替え、さて顔を洗おうと思ったら、水差しが空っぽだった。
うっかり洗顔用の水を汲んでおくのを忘れて、寝てしまったようだ。
仕方がないので、顔を洗いに中庭に出た。
井戸で汲んだ冷たい水で顔を洗い、ふと屋根の上を見ると、シャルペロがいた。機嫌がよさそうに尻尾をゆらゆらと揺らしている。
散歩から帰って来たのだろう。
夜の散歩は、眠る必要のない彼の、毎日の日課だ。
「おかえり」
『ただいま』
声をかけると、シャルペロは猫そのものの身ごなしで、軽やかに屋根から着地し、私の足下にやって来た。
『サララ、朝ごはんなに?』
「考え中」
いつも朝の時鐘が鳴る頃に朝ごはんを食べるが、シャルペロは一度も遅れたことがない。
ほんと、食いしん坊だな。
この時期になるともう空は明るいので、採光を考えた造りの台所には朝日が射し込み、灯りを使わなくて済む。
パンを炙るつもりで、食料品棚を覗きこみ…もうなかったことに気がついた。
「ああ、ゆうべ食べちゃったんだわ。シャルペロー、パンケーキでいいでしょー」
食料品棚から、粉とバターと蜂蜜の壺とタンポポのお茶の瓶を取った。
シャルペロには一応聞いたが、買い置きのパンが切れた以上は、今朝はパンケーキに決まっている。
返事を待たずに、竈に種火で火をおこしながら、素早く生地の用意をする。
木鉢に入れた蕎麦粉は、簓でかき混ぜれば、網で粉をふるったのと変わらない。
先に汲み置きの水をヤカンに沸かして、タンポポのお茶を入れてから、パンケーキを焼いた。
卵もミルクも入らない水で溶いただけの生地だが、フライパンで蕎麦粉の焼ける匂いは香ばしくて、空っぽの胃袋が反応する。
「添えるのはバターと蜂蜜でいいわね」
自分とシャルペロの分を二枚づつ焼き、木皿に乗せると、じっと見ていたシャルペロが言う。
『ジャムで食べたい』
「あるわけないでしょ」
春とはいえ、まだ加工向きの果物が出回ってないから、ジャムは作れない。
実家なら、保存庫にジャムやら酢漬けやら作ってあるが、引っ越してきたばかりのうちの食料品棚は空っぽだ。
「果物が手に入ったら、作ってあげるわよ。イチゴでもアンズでも、イチヂクでも」
『イチゴがいいー』
「イチゴね。今度一緒に摘みにいこうか」
町の外の原っぱに、イチゴの群生する場所があるらしいから、折をみて行こうかな。
シャルペロが一緒なら、すぐ見つけられるだろうしね。
出来上がった朝ごはんを台所のすみの小さな食卓に置く。
熱々のパンケーキにバターを乗せて蜂蜜を垂らすと、シャルペロが待ち兼ねたように騒ぐ。
『ねえ。蜂蜜、もう少しかけてよ』
「はいはい」
シャルペロのパンケーキにだけ蜂蜜をさらに垂らしてやると、木皿の中でパンケーキが溺れているようになった。
「かけすぎじゃない?」
『ぜんぜんだよ。もっと欲しいくらい』
「駄目。お皿からこぼれちゃうでしょう」
どうせ全部舐めとるだろうけど。
先にシャルペロのパンケーキを食べやすいように切り分けてやり、蒸らしておいたタンポポのお茶をカップに注ぎ入れた。
そうして、やっと自分のパンケーキに取りかかる頃には、いい具合にパンケーキに溶けたバターと蜂蜜が染みこんでいる。
口に運ぶと、混ざりあった金色の液体が口の中にジワッと広がった。
バターの塩気が混ざった金色の蜂蜜は、舌に心地よく甘じょっぱい。
ジャムも美味しいけど、私はこっちの方が好きだなぁ。
ジャムが食べたいと言ったシャルペロも、幸せそうに目を細めている。やっぱり、美味しいものね。
でもこの蜂蜜、実は薬の調合用に買ったものなのだ。
お金が心配なくせに、こうして蜂蜜の魅力に負けてしまった、私。
駄目だなあ。
食卓を片づけて洗い物も済ませると、私は通りに面した飾り戸を初めて開け放った。
窓から頭を出して外を見たが、半時ほど前に時鐘がなったばかりの早い時間のせいか、通りの店はどこも開いておらず、人通りもない。
食料品や生活雑貨を扱う市場なら、もう空いていて当たり前だが、入れる時間帯が厳密に決められている町のダンジョンに、今から向かう探索者はいない。
『まだ早いんじゃないの』
同じように頭を出していたシャルペロが言う通り、開店するには、時間がまだ早い。
「そうね」
私は窓を閉めると、再び台所に戻った。