9話 妹、来訪
このアパートに引っ越してきて、一週間が経った。
家から徒歩十分圏内にある仕事場のスポーツジム。そこの受付を始めて間もないが、仕事は簡単だし、何より職場の人たちがとても優しい。実に働きやすい職場は、いつもみんなが笑顔だった。
アパートの住人も相変わらずで、最近は美波さんと一緒にお茶を飲んだりすることもある。
美波さんは、昔からの夢である花屋を開き、一所懸命切り盛りしている。「いつも大好きな花に囲まれて、とても幸せよ」と、笑顔で話してくれた美波さんが、なんだかちょっと格好よかった。夢を叶えるって、本当に凄い。私はアルバイトのままだし、夢もない。だけど、こうやって人の話を聞くだけでも、何かを得たような気がする。
こんな快適な暮らしの中で、相変わらず携帯は鳴り止まない。毎日毎日、彼から電話がくる。一週間経っても、私はまだ、彼からの電話を取った事がなかった。
「そろそろ、限界ですよー……と」
携帯を見ながら、一人呟く。そろそろ本気で向き合って、話さなくてはならない。これで本当に、彼とは終わりにしなくてはいけない。
終わりにする、それが嫌で逃げていたのか。それとも、ただ単に私が臆病すぎるのか。それすらもわからないまま、毎日が平穏に過ぎていった。
平穏な毎日のある日、それは突然私の前にやってきた。
「来ちゃった」
「萌……」
彼女は戸塚萌、私の三つ下の妹だ。
私と萌は、腹違いの妹だ。私が幼い頃に父と母が離婚し、経済力などを考慮して父が私を引き取った。そして母と別れてからわずか一年で、今の義理の母と再婚したのだ。
その父と、義理の母の間にできたのが萌。
義理の母は私のことも可愛がってくれたが、やはり自分の子供のほうが可愛かったのだろう。幼い頃は本当の母のように接してくれた義母も、大人になってからは萌ばかりを可愛がっていた。
出来の悪い私と違い、萌はなんでもできる。成績も良かったし、明るく人望も厚い。そして何より、家族思いなのだ。そんな出来の良い妹と私を比べて、義母はだんだん、私のことを見なくなっていった。少しずつ義母との間にできた亀裂が大きくなり、私はあの家に居辛くなった。だから家を出たのだ。
家族ともうまくいかない、彼とも別れた。この世の全てから取り残されてしまったような、あの孤独感を、一体なんて言い表せばいいのか。
そんな私の事情を知って、利人さんはこのアパートに迎えてくれたのだ。本当に、感謝してもしきれない。
そして突然現れた妹は、一体何をしにきたのだろう。
萌とは別に仲が悪いわけではないけれど、なぜか彼女には本音を言いづらい。一応今のアパートの場所は教えておいたけれど、まさか来るとは思ってもみなかった。
ごくり、と唾を飲む。
なぜだか、緊張が走る。
萌の無邪気な笑顔を見るだけで、ズキズキと心が痛む音がする。萌は、何も悪くないのに。
「もう、お姉ちゃんったら、ちっとも家に帰ってこないんだもん。正月くらい帰ってきてもいいじゃない」
「うん、ごめん……」
「今日はね、近くまで来たから寄ってみたの」
「そ、そうなの。どうぞ?」
扉から少しずれて、玄関に入るようにスペースを作る。すると萌は嬉しそうに「お邪魔しまーす」と言って、玄関に一歩入ってきた。でも、萌はすぐに玄関に入らずに、ひょこっと外に顔を出して「こんにちはー」と誰かに声をかけた。
「ちょ、ちょっと萌?」
「……こんちは」
この声は、律か。もう大学から帰ってきたのだろうか。しかしよりによって、律と萌を会わすことになろうとは、思いもしなかった!
「ほら萌! 早く入りなさい!」
「えー、だって。彼、格好いいんだもん。お喋りしたいー。あ、良かったら一緒にこっちに来ませんか?」
「萌! なななな何言ってるの!?」
「お姉ちゃんったら、何動揺してるのよ。ね、どうですか?」
律、頼む。断ってくれー!
まぁ、こんな風に願わなくても律なら断るに違いない。だって、私のこと嫌ってるっぽいし。きっと大丈夫、な、ハズ……
「いいよ。じゃあ荷物置いたらそっち行くから」
にこーっと、満面の笑みで答える律。
なんだって!? おのれ律め……断れよ! ああ、奴の満面の笑みが怖い。きっと何か言われるに違いない。
だから萌は嫌なんだ。すぐに話してみたい人に声をかけては、必ずと言っていいほど獲物を捕まえてくる。彼女の容姿が男を虜にするのだろうか……姉としては隣に並ぶのも嫌なくらい、萌は可愛らしい。仔猫のようなうるうるの瞳で、透き通った高い声、そして自慢だと豪語する彼女のすらりと伸びた脚が、今日も獲物(男)を捕まえたのだ。
本日の生贄は、律。律のちょっと癖のある黒髪に黒縁スクエア型の眼鏡が、萌のタイプなのだろう。
「ねぇねぇ、すっごい格好いい人の隣に住んでるんだねー! 私も家出て、ここで暮らしたーい」
「萌の大学は、ここからじゃ遠すぎるでしょ? 駄目よ」
「えー、じゃあ大学辞めて働こうかな」
「あのねぇ……」
この子供っぽさが私は苦手。
きっと今日、萌はずっと律にべったりだろう。
気が重い夜は、これからだ。