8話 忘れたい 忘れたくない
いい奴だと思ったのに、結局律は変わりなく嫌な奴だ。
大体、私のことをいつまで「アンタ」と呼ぶのだろうか。私はまだ彼に、一度も名前を呼ばれた事がない。
「いいけどね、別に。名前で呼んで欲しいわけじゃないし」
誰もいない部屋で、自分に言い聞かせるように独り言を言うと、なんだかとっても虚しくなる。
今日は散々歩いたせいか、もうクタクタだ。時間はまだ夕方の六時だけど、シャワーを浴びてとっとと寝てしまおう。そう思った私は、バスルームへ向かった。
前の部屋よりもシャワーは出がいいので快適だ。頭から爪先までしっかり温まると、少し疲れが取れたような気がする。
肩にタオルを引っ掛けたまま冷蔵庫を開き、ミネラルウォーターを取り出した。きん、と冷えた水が体に潤いを戻してくれるような気がする。
部屋着のまましばらく寛ぎ、ベッドに横になったまま雑誌を広げたり、テレビをつけて笑ったり、一人の時間はあっという間に過ぎていく。きっと快適な証拠だ。
すっかり寛いで半分は睡魔に意識を持っていかれた頃、インターホンが鳴り響く。せっかく寛いでいるというのに、一体誰だ。しぶしぶ玄関に行き扉を開くと、そこには友哉くんが立っていた。
「友哉くん、どうしたの?」
「あ、今日はごめんね。なんか律から懐かしい先生の話を聞いたら、どうしても会いたくなって。めぐみちゃんをほっといたりして、俺、悪いことしたなぁって思って、謝りにきた。本当にごめん」
直角に腰を折り、私に頭を下げる友哉くん。そんなに気にしなくてもいいのに。きっと自己嫌悪に陥って、こうして謝りにきてくれたのかと思ったら、ちょっと胸がほわんとあたたかくなった。
「大丈夫だよ。懐かしい先生には会えたの?」
「ああ、もちろん。すっげー懐かしい気がしたよ」
「それならいいの。私のことは気にしなくていいよ。大丈夫だから」
「……じゃあ今度、埋め合わせするね」
大きな体が小さく見えるほど、友哉くんはおずおずと私の機嫌を伺う。なんか、可愛いな。
埋め合わせなんてしなくてもいいけど、こうして友哉くんが言ってくれているのに断るのもどうかと思って、私はつい、首を縦に振ってしまった。でも、私の返事に友哉くんは大袈裟なほどはしゃいで、子供のように嬉しそうに眩しい笑顔を向けてきた。
向日葵を思わせる友哉くんの笑顔は、見ていてとても嬉しくなる。喜怒哀楽が顔に出やすい人なのかもしれない。
「じゃあ、本当に今度! 絶対埋め合わせするからね! それじゃ、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
私達は手を振って、その場で別れた。
部屋に戻った私は、友哉くんのことを考えていた。
もしも友哉くんみたいな人が彼氏だったら、きっと毎日楽しいんだろうな。
一緒にいてほんわかできる人は、心の底から寛げる。でも、私は利人さんが気になる。
利人さんは、自分よりも結構年上だけど、何ていうか彼の王子様オーラが私の胸を鷲掴みする。きらきらの笑顔ビーム? うーん、なんか違う。利人さんの無駄に多いフェロモンが、きっといけないんだわ。だって、本気で利人さんを好きになったって、絶対子供扱いされるに決まってる。
「子供じゃないけど、利人さんにとっては子供みたいなもんか」
好きになる前から諦めに入るのは、どうしても前の彼を忘れられないから。忘れたいけど、忘れられない。自分にとっては大恋愛だと思っていたあの恋は、彼にとってはほんのお遊びだったのだろう。彼との間にある温度差が、今ならよくわかる。でも、あの時は本当に、運命の人! と声高に言えるほど好きだった。
「どうすれば忘れられるんだろう」
忘れられないのは、この恋にちゃんと終止符を打っていないから。
私が、怖くて逃げ出してしまったから。
ちゃんと終わりにしなくてはいけないことぐらいわかっている。でも、もう一度会ってしまったら、声を聞いてしまったら、私は再び彼のところに戻ってしまうような気がする。
傍にいる資格はないというのに。
「まだ、もうちょっとだけ。もうちょっと、充電してから……」
ベッドに身を沈め、そう呟きながら瞼がゆっくりおりてくる。そして私は、意識を手放し、夢の世界へと旅立ったのだった。
ベッドの下で震える携帯に気付かないまま、心地良い眠りを堪能した夜だった。