7話 ときめき返却
「ごちそうさま」
顔の前で手を合わせ、食事終了の挨拶をする。隣では、律がまだうどんを食べていた。
ここはどうするべきか。先に立って大学内から出て行くべきか、それとも律が食べ終わるのを待つべきか。悩むほどのことではないけれど、なんとなく先に立ちづらい。
コップに入っている水は、あとわずか。そのわずかな水をゆっくり喉に流しながら、横目で律がいつ食べ終わるかを確認していた。
「ごっそーさん」
指先で口を拭いながらそう言うと、テーブルに置いてある眼鏡を再びかけた。黙っていれば割りと格好いいのに、口を開くと途端に最悪な男になる。もったいない。
隣の律は、私が待っていてやったにも関わらず、勝手に席から立ち上がる。そして一人で食器を下げに歩き出した。
待ってたのに……! 年上の優しさを踏みにじりおって!
ぐぬぬ、と怒りを堪えながらテーブルの上で拳を握っていると、遠くから律の声がする。
「おい。片付けんじゃねーの?」
「……あ、うん」
「トロトロすんなよ。わかんねーんだろ? こっち来い」
命令形かよ! まぁ、片付ける時どうすればいいのかわからなかった私を、ほんの少しだけ気遣ってくれたことは感謝しよう。でも、もう少し言い方ってあると思うの。
しぶしぶ律の隣に行くと、あれよこれよと律が色々説明してくれる。その時ばかりはさすがの律も、優しかった。いや、微笑んでくれたとかないけれど。
すっかり食事を終えた私は、律とその場で別れた。が、この大学からの帰り道がわからない。さて、どうしたものか。
大学までの道は友哉くんが連れてきてくれたので、殆ど覚えていない。でも、この街を知るために一人で散策していたのだから、きっとアパートに辿り着けるだろう。そう思って、私は歩き出したのだった。
……アパートに辿り着く、はずだったのに。一体ここは何処なのでしょうか。
気がついたら住宅街のど真ん中に辿り着いていた。道端に綺麗な花がたくさん植えられていて、その花を辿りながら歩いていたら可愛らしい猫に出会い、その猫のあとをつけていったらこんな所まで来てしまった。電柱に書いてある住所を見ても、こんな住所は見たこともない。しかも、今頃気付く私も凄いと思うけれど、携帯を忘れている。家に充電したまま、家をふらりと出てきてしまったのだ。もう、誰にも連絡することができない。
「うう、どうしよう。すっごく遠くまで来てる気がする……」
二十三歳で迷子。イタすぎる。
どこか大通りにでも出て、タクシーを捕まえるしかないかもしれない。
知らない土地で、一人ぼっち。これが怖くないわけはなかった。でも、頼れる人は誰もいない。人通りはなく、道を聞こうにも誰も通らない。道端で日向ぼっこをしている猫にでも聞いたら、もしかしたら答えてくれるかも? 心細さで、私の心が限界に近づいていた。
「だ、大丈夫。大丈夫」
何度も呟きながら、うろうろと歩き回る。でも、本当は全然大丈夫なんかじゃない。
誰か、助けて。
届くはずのない私の声を胸の一番奥底に閉じ込めて、何度も「大丈夫」と呟いた。声に出して、何度も。何度も。
「お前はやっぱり馬鹿だな」
背中から聞こえてきた声は、憎たらしい律の声。でも、今は憎たらしいことを言われても、とても心強かった。
振り返ると律の息が上がっている。こめかみから少しだけど、汗が流れている。肩で息をしながら、大きく息を吸い込む律が私の腕を乱暴に掴んだ。
「何が『大丈夫』だ! そんな不安な顔してるくせに。変な風に強がるな!」
変な風に強がってるわけじゃない。大丈夫、は私から不安を消す、大事な呪文なの。こんなこと言っても、きっと律には伝わらないだろうけど、大事な言葉なの。
怒っているけど、本当は律が私を探しに来てくれたのかなぁって思ってる。だって、こんなに息が上がっているなんて、どう考えても探しに来てくれたような気がしてしまう。
律、いつも憎たらしいことばかり言うけど、今日はほんの少しだけ、律が好きになったよ。
力強く引いてくれるその腕が、なぜか嬉しい。
前を見たまま一度も振り向いてくれないけど、心配してくれたのはわかってる。
こんなに遠くまで私を探しに来てくれて、本当に嬉しい……
「ったく。なんでこんな近所で迷子になるかな。ほら、アパートここだから」
「……へ?」
「変な女だよ、アンタ。アパートの正面じゃなくて裏にいたんだよ。だからわかんなかったんじゃねーの?」
「裏?」
「そうだよ。本当にアンタは……ちっ」
また舌打ちだ。それにしても、アパートの裏ですと?
つまり、私はアパートに辿り着いていたのに、辿り着いた場所がアパートの裏側でわからなかったということか。それは確かに、馬鹿かもしれない。
一瞬でも律にときめいた私って、本当の馬鹿だ。このときめき、返してくれ!
でも、息が上がっていたのはやっぱり、私を探してくれたのだろうか。そうなの? 律。
たったこれだけのことを、律には素直に聞けない。
この後、部屋に入るまで後ろからずっと「馬鹿」と言われ続けたことは、言うまでもない。