5話 友哉
朝っぱらから大失敗してしまった私は、散歩中も溜息ばかりついていた。
折角こんなに良い天気なのに、ようやく春の訪れを感じるくらい暖かいのに、さっきの大失敗のお陰で気分はどんより曇り空。
「ああ、もう律と顔合わせたくない」
律に会うとなんだか緊張してしまい、必ず何かをやらかしてしまいそうになる。しかもなぜかわからないけれど、やたらと私だけを敵視するし。私、何かしてしまったのだろうか?
とにかくこれから先、律の隣で失敗せずに暮らしていく自信は、ない。そして、さらに大きな溜息を吐くのだった。
アパートから近所の散策をしているうちに、ちょっとした街中に入っていた。そこは賑やかなお店が何軒も並んでいて、今は落ち込みがちだと言われている商店街が、元気に軒を連ねていた。
商店街は活気付いていて、待ち行く人々も皆元気な笑い声を響かせている。こうして元気な街の姿を目にすると、なんだか元気をおすそ分けされているようで、さっきまで曇っていた気分は次第に上昇してきた。これだから人の笑顔って好きなんだ。やっぱりこの街に越してきて良かった。……律のことはこの際、考えないようにしよう。
しばらく商店街を歩いていると、まだ閉まっているお店が一軒ある。看板を見てみると、この店はどうやらバーらしい。
「Bar Blue Sky か」
お酒はあまり得意ではないけれど、自分の家の近くに行きつけのお店を見つけることにちょっと憧れがある。だから今度、お店が開いていたら行ってみようかな。
営業時間をチェックしようとして、お店の扉の近くに掛けられたボードを覗き込む。すると、そのバーの扉が元気に開かれた。
ゴッ……と鈍い音を立てる私の頭。扉が元気よく開いてきて、私の頭の右側から思い切りぶつかった。
「……っ!」
声にならない痛みがやってきて、その場でしゃがみ込む私。そして扉を元気に開いた人が、私の蹲る姿を見たのだろう。物凄く大きな声で大量の言葉を投げかけた。
「だ、大丈夫!? ごめんね、気付かなくて。どこぶつけた? もしかして頭!? 頭なんだな!? やっべーどうしよう!」
正直、痛みよりも言葉の五月蝿さにイラッとした。もう少し気を遣ったら如何かね? 喉からこんな言葉が出かかった時、相手を見上げた私は絶句した。
「友哉くん」
「え。あぁ! めぐみちゃん!」
お互いの顔を見て驚きを隠せずに、二人とも大きく口をあんぐりと開けたまま固まった。そして、訪れる笑い。こういう時って、別におかしくないのに笑ってしまうのはどうしてだろう。友哉くんが楽しそうにけらけら笑った後、そっと私の頭に触れた。
「たんこぶになってない? ホントごめんね、俺、誰もいないと思って勢いよく扉開けちゃったから」
「大丈夫。私があんなところにいたのが悪かったの。友哉くんのせいじゃないよ」
結構痛かったけれど友哉くんの慌てふためきようを見ていたら、痛みなんてどこかに飛んでいってしまったようだ。扉にぶつかったところを触ってみても、特にたんこぶにはなっていないようだ。
友哉くんは年上なのに、なんだか全然年上になんて思えないほど話しやすい。同級生の男友達のような気がしてしまう。ちょっと目が合えば、ふにゃりと頬を緩ませて笑顔を向けてくれる友哉くん。その笑顔につられて、私もつい、笑顔になってしまう。
そういえば友哉くんは、どうしてこの店から出てきたのだろう。もしかしてここで働いてるのかな?
「ねぇ、友哉くんってここで働いてるの?」
「そうだよ。ここは俺の先輩と共同経営している店でね、バーテンダーやってるんだ」
「バーテンさんってなんか格好いいね! 今度お店覗きにきてもいい?」
「うん、おいでよ。めぐみちゃんならいつでも大歓迎だよ」
きらきらの金髪が光を浴びながら、にっこりと嬉しそうに微笑む。傍から見たら怖そうな感じなのに、こうして話してみると友哉くんの人柄の良さを知る事ができる。私、やっぱりあのアパートに越してきて良かった。
友哉くんはお店に忘れ物を取りに来たらしく、その後は何も予定がないということで、私と一緒に近所の散策に付き合ってくれることになった。私よりずっとこの街のことを知っている彼は、あの店は何が安いとか、あそこはゆっくりする時に使うといい、とか色々なことを教えてくれる。頭の中に色々な情報を詰め込んで、友哉くんと並んで歩く住宅街。歩いている途中に差し掛かった桜並木。桜の蕾はまだ開いていない。けれど、もうすぐ咲くぞ! という意志が伝わってくるくらい蕾は膨らんでいて、よく晴れた暖かい日にでも一斉に花が開きそう。桜並木の下を通る楽しみが一つできた。
「あ、ねぇねぇめぐみちゃん。お腹空かない? そろそろお昼だけど」
「そういえば、ちょっと空いたかも」
「美味しいご飯でも食べに行こうか」
「うん! わぁ、楽しみ」
二日酔いで気持ち悪かったはずなのに、今、凄くお腹が空いている。散策している間に気持ち悪さなんかどこかに行ってしまったようだ。
友哉くんが私を連れてやってきた美味しいお店。でも、そこはお店ではなかった。
明らかにお店の雰囲気はカケラもなく、どう見てもこれは……
「友哉、くん? ここは学校ですよ?」
「うん。俺、ここの大学通ってたんだけどね、学食がすっげー美味いの。一般の人にも開放されてるから大丈夫だよー、行こ」
ぐいっと腕を引かれ、あっという間に友哉くんと手を繋いで大学敷地内に進入してしまった。
友哉くんの手は大きくて、小さな私の手はすっぽりと包まれている。大きくてあったかい、こうして男性と手を繋ぐなんていつ以来だろう。彼とは手を繋いだ事がなかったから、とても新鮮な気分だ。
彼と手を繋いでいたら、何かが違っていたのかな。ううん、それはない。手を繋ごうがきっと、関係ない。
私はそのまま、彼のことを思い出すのをやめた。思い出すと、辛いだけだから。