44話 家族の絆
泣き続けたせいで涙も底をついたのか、もう一滴も出てこない。代わりに胸のど真ん中にぽっかりと大きな穴が空いたような気がした。
壁一枚隔てているだけなのに、この世の誰よりも一番遠いところにいるような気がするのは、どうしてだろう。手を伸ばせば、すぐそこに律がいる。でも、彼の周りに私は存在してはいけない。もう、律の過去を刺激するようなことをしたくないから。
「……別れちゃったぁ」
ははっと自嘲気味に笑いながら天井を仰ぐ。さっきまで私の隣にいた律は、もういない。その喪失感といったら……。律がいない。この現実を受け入れられる日は、いつ来るの? 私はそのまま、静かに目を閉じた。
――もう、世界が真っ暗。そんな気がした。
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真っ暗とはいえ、毎日は同じように過ぎていく。朝起きて、仕事をして、ご飯を食べて。そんな何気ない毎日は、当たり前のように過ぎ去っていく。でも、いつも何かが足りない。職場の人間関係も良好、アパートの住人ともいい関係を築けている。……たった一人を除いて。
頭の片隅には、いつだって律の姿がある。律と別れてからすでに一ヶ月ほどの時間が経ったというのに、未だに私の頭の中からは消えてくれない。
あれから、アパートで時折律とバッタリ出くわしてしまっても、律は私が見えないのか、ひと言も声をかけてこない。それは私も同様だ。声をかけて無視されるのが怖くて、一瞬目が合ったとしても、すぐに反らしてしまう。そんなギクシャクした関係は、一体いつまで続くのだろう。考えたって答えなんかない。私はもう、こんな毎日に疲れてしまった。
引っ越そうかな……。そう考えていた。
このアパートはとても居心地が良くて、すぐにその考えは浮かばなかった。でも、こうして別れてからも律の姿を見るのは、とても辛かった。もしかしたら「また付き合おう」と言ってくれるかもしれない。どこかでそんな期待はあったけれど、一ヶ月経った今も言葉ひとつとして掛けてこないのだ。もう、律との関係の修復は、絶望的だ。そう悟った。
季節はすっかり春から梅雨へと変わっていた。毎日じめじめどんよりしていて、鬱陶しいくらい雨が続いている。
今日も雨。仕事帰りの私はビニール傘を開き、ジムを後にした。そしてそのままアパートへは帰らず、駅へと向かう。律と別れてから、とてもじゃないけれど出かける気力など湧かず、今までなあなあにしてきてしまったが、今日こそは実家に帰って両親に謝らなくちゃ。元彼の奥さんが家に乗り込んできたなんて、本当に私は何をしていたのだろう。すっかり片がついたとばかり思っていたので、あんな不測の事態に陥るなんて夢にも思わなかった。気が重い。けれど、私の足は真っ直ぐ駅に向かって進みだした。
電車を乗り継ぎ実家の最寄り駅に着いた頃には、辺りもすっかり暗くなってしまった。仕事でいつも遅い父親の帰りに合わせてやってきたので、丁度良いかもしれない。駅の改札を出てから実家までは徒歩で十分ほど。私はその十分しかかからない道のりを、二十八分もかけて歩き、ようやく実家の姿を目にしたのだった。
「……ただいま」
家を出てから数年が経った今、もう実家が自分の家じゃないような気がする。長い間過ごしてきたこの家が、まるで他人の家に思えた。
玄関を開けると、背が低い靴箱がある。その上には、綺麗な花が活けられていた。これは義母の趣味が活け花だからだろう。お母さんが家にいた頃は、こんな高価そうな花が活けられていることはなかった。
「おかえりなさい」
義母がキッチンから出てきて、私に微笑む。けれど、その笑顔は今でも、作られたもののような気がして、私はつい苦笑いをしてしまう。靴を脱いで家に上がり、玄関の隣にあるリビングに顔を出した。壁には子供の頃に描いた私と萌の絵や、家族で撮った写真などが飾られており、義母が活けた花もある。少しだけリビングの様子は変わったけれど、懐かしい匂いがした。そのリビングの少し古ぼけたソファーに、お父さんが新聞を読みながらくつろいでいた。
「……久しぶりだな、めぐみ」
「うん、久しぶり」
ようやく新聞から顔を上げた父は、前より少し老けた。白髪も多くなったし、少し太ったような気がする。でも、元気そうだ。久々に父の姿を見て、ようやく実家に帰ってきたような気がした。その時、私を出迎えてくれた義母がキッチンから戻り、父と私の前にお茶を置く。コトリと湯飲みをテーブルに置く音と同時に、私は両親の前で正座をし、勢いよく頭を下げた。
「お父さん、お義母さん。この前はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした……!」
額が床にくっつくほど頭を下げ、二人に向かって謝罪の言葉を述べた。心配をかけてはいけないのに、迷惑をかけてはいけないとわかっていたのに、とんでもない親不孝を私はしてしまったのだ。何回頭を下げても、謝罪しきれない。しかし、そんな私の気持ちとは反対に、お父さんは意外な言葉を私にかけた。
「お前が元気なら、それでいい」
頭を上げてお父さんの顔を見たら、今まで見た事がないくらい穏やかな顔をしている。
どうして? なんで私を責めないの……?
真っ直ぐに私と向き合う父が、宥めるようにそう言った。でも、今の私には、かえってそれが辛かった。どうせなら大声でガミガミ怒鳴り散らしてくれたほうがいい。ボロクソに怒られて、ズタズタに引き裂かれる方が今の私にはお似合いだ。
「なんで怒らないの!? どうせなら……精神崩壊しそうなほど、怒ってくれたほうがいいのに」
床についた指先が、小刻みに震えている。
こんなだらしない娘を持って、後悔はしていないの? 短大を出てから勝手に家を出ることを決め、正社員にならずアルバイトのまま、気ままに生きている私を、家の恥だと思っていたから連絡してこなかったんじゃないの? 出来損ないの娘を持って後悔しているのだと、私は勝手に思っていた。
「お前は、少し無理をすることがある。いつも自分に何かを言い聞かせながら、辛いことも苦しいことも飲み込んできただろう。父さんは、お前にそんな思いをさせてしまったことを、いつも後悔していた」
お父さんの言葉に、私は頭を上げた。思いがけないお父さんの告白に、私はただ、耳を傾けていた。
「何でも飲み込んできたお前を、責める理由なんて一つもない。そりゃあ、あの女性が乗り込んできた時は、驚いたけどな」
少し肩を竦めながらおどけてみせる父。その隣で静かに微笑む義母。二人の姿を見て、私の視界が大きく歪んだ。ぼやけてしまって二人の顔が見えないほど、私の目には涙がたまっていたのだ。
「お前の母さんと別れてから、お前は常に父さんのことばかり考えてくれた。本当は母さんに会いたかっただろうに、父さんに気を遣って決して会いたいとは言わなかった。そして新しく今の母さんを迎えた時も、お前は何一つ文句を言わなかった。……きっと父さんが、お前を何も言えないような子に育ててしまったんだな」
「そんなこと……」
「悪い父親だな。だからこそ、今回の騒動のことは責められない。お前の元気な姿を見れた。それで充分だ」
二人ともなんて穏やかな目で、私を見るのだろう。私は、この二人の目を正面からちゃんと見ていたのだろうか。勝手に一人でうだうだと、家族から敬遠されていると思っていなかっただろうか。……そうか、全部私が勝手に思い込んで、悲劇のヒロインぶっていたのか。こんな時に、家族のあたたかさを初めて知ったような気がした。
「ごめんなさい……お父さん、お義母さん」
「もういい。その代わり、ちゃんとした男性と付き合いなさい」
「……うん」
零れた涙を指で拭いながら、両親の前でようやく笑顔を取り戻す事ができた。
家族という存在が、ただ嬉しくて。こんなにもあたたかいなんて、気付きもしなかった。
一つ呼吸をして、目の前に置かれたお茶に手を伸ばした。お茶はもう温くなっていたけれど、びっくりするほど優しくて、それでいて少ししょっぱい味がした。