43話 幸せは、続かない
部屋の明かりを消して、夜空にぽっかりと輝く月の光だけが窓から射し込む。月明かりが律の肌を照らし、意外なほどがっしりした上半身を浮かび上がらせた。そっと手を伸ばし、律の逞しい胸に触れると、私と同じくらいドキドキと激しく鼓動が鳴っていた。
「緊張、してる?」
「そりゃするだろ。緊張して手まで震える」
目の前に出された律の手は、小刻みに震えていた。素直に答えてくれる律が可愛くて、あまりにも愛おしすぎて、欲望のまま彼の手の中で狂ってしまいたいと思ってしまう。
互いの唇が触れあい、肌を滑るように律の手がなぞる。くすぐったいやら恥ずかしいやら、おかしな気持ちになってしまう。それでも与えられる刺激はあまりにも甘くて、体も心もすべてが蕩けてしまい、思考まで止められてしまった。熱く甘い夜は刺激的で、満ち溢れるほどの幸せを与えてくれた。
**
「あだっ! いたたたたっ」
なんて品のない叫び声。さっきまで二人だけの甘い時間を過ごしていた時、震えるほどの快感を味わったその瞬間! 私の足が攣った。指先まで力が入り、あっというまに足が攣ってしまったのだ。そんなわけで、二人の時間の後の甘い腕枕タイムはおあずけとなり、攣った足を律が呆れながら擦っていた。
「アンタなぁ……はぁ」
深い溜息という特典までついてきた。もう、情けないやらなんとやらで、涙が出てきちゃう。
「ジムで働いてるくせに、運動不足すぎじゃねーの?」
「だって私はジムの受付! あたたっ」
足の甲がぴんっと反り返り、ぴきぴきと嫌な痛みを発している。それでも律が優しくなでてくれているせいか、少しずつ足の感覚が戻ってきた。
感覚が戻った足を擦りながら、私も一つ大きく溜息を吐いた。本当に色気のない自分が嫌になってしまう。こんなアホな彼女で、律はいいのだろうか? 悲しいけれど、律の周りにはきっと、もっと素敵な女性がわんさかいるに違いないのに、どうして私を選んでくれたんだろう? 自己嫌悪に陥るほど、自分の馬鹿さ加減に呆れて言葉も出てこなかった。
この後のらぶらぶいちゃいちゃタイムはおあずけかぁ。なんて思っていたけれど、私の隣に律がよじよじとやってきて、ベッドにどさっと横たわる。
「ほら、おいで」
腕を伸ばして自分の二の腕をぽんぽんと叩く律。これは私に腕枕をしてくれるという、嬉しいサイン。どんより顔だった私は、ぱあっと晴れ渡った顔に変わっただろう。私はそのまま、尻尾を振って律の隣に横になり、律のたくましい腕に頭を置いた。そしてそのまま、律の反対の腕が私の背に回り、きゅっと抱き寄せてくれた。
くはーっ! 幸せ! 久しぶりの幸せ気分に浸りながらももっと律の体温を感じたくて、私は律の胸に顔をすり寄せる。女性とは違う男性ならではの筋肉質な胸板に惚れ惚れしながら、たくさん律を感じたくて頬を胸板に押し付けた。
「可愛いやつ」
年下に「可愛い」と言われるとは思いもしなかったなぁ。でも、大好きな彼からの可愛いという言葉に、喜ばない女はいないと思う。もちろん、私もその一人だ。
「めぐみの表情は、くるくる変わって可愛いな。見てて飽きない」
「そ、そんなに表情豊かかな。でも、律だってくるくる変わるよ?」
「俺が? このポーカーフェイスと言われた俺が?」
「誰がそんな冗談を……」
「もう一度言うけど、ポーカーフェイスの俺が?」
どうやらポーカーフェイスという自分が、いたく気に入っているらしい。大事なことなので二度言いました、みたいな律の台詞がおかしくてたまらない。嬉しいときは目を細めて笑うし、恥ずかしい時は耳まで真っ赤になってるし、怒った時は眉間に深く皺が刻まれるほど表情が変わる。そんな彼になったのは、私と出会ってからだとうぬぼれてもいいのだろうか。彼を変えたのは、私。そうであってほしいな。
ベッドの中でお互い裸のまま抱き合って、幸せな眠りが訪れようとしていた時……私の携帯がけたたましく鳴りだした。
「……せっかくいい時間を過ごしてるのに」
幸せムードがぶち壊されたような気がして、私に気分は優れない。しかも着信相手は妹の萌からだった。あ、そういえばまだお土産渡してなかったな。
いくら無視しても、萌は電話を切ろうとしない。仕方なく通話ボタンを押し、声を出した途端、萌のボリューム過多の声が私の鼓膜を突き破ろうとしていた。
『お姉ちゃん! どういうことか説明して!』
第一声がこれ。どういうことか説明してほしいのは、こっちだ。
「萌? とにかくちょっと落ち着いて。一体何の話?」
この後の萌の言葉は、あまりにも衝撃的すぎた。
『お姉ちゃん、前の会社の人と不倫してたって本当なの!?』
「……え?」
『今日、不倫相手の奥さんが家に来たの。それでお姉ちゃんの忘れていった私物とか持ってきて……』
「ちょ、ちょっと待って」
頭がこんがらがっている。だって私、元彼の家には一度だって行った事がないのに。どうして? 彼の別宅にだって私物を置いていったことなんか、一度だってない。混乱する頭を抱えながら、一つだけ思い当たることがあった。
「私物って……私の本?」
『そうだよ。たった一冊の本を持って、奥さんが乗り込んできた。どうやって家を調べたのかは知らないけど、凄く冷静すぎて逆に怖かった。お父さんもお母さんも、ずっとずっと謝ってたんだからね』
そう。一冊だけ彼に本を貸したまま、返ってこないものがあった。そのしおりに、彼宛にメッセージを書き込んだのを、よく覚えている。彼の名前は書かなかったけれど、私の名前は書いた。しおりに書いたのは会える日の予定だった気がする。なんでまた、そんなものが今頃になって見つかったの!? よく現状がつかめなくて、私の頭の混乱はますます酷くなる一方だ。その私に畳み掛けるように、萌が言葉を続けた。
『その人、転勤するんだって。それで別宅をひっくり返していたら奥さんが偶然見つけたって言ってたよ。どうこう言うつもりはないけれど、こういうものがあると不愉快だって言ってたし、最後にどうしても文句言ってやりたかったって言ってた』
「……そう、だったの。……ごめん。迷惑掛けちゃったね……」
『まぁ文句を言うだけ言って帰ったって感じだけどね。お父さんもお母さんも気にしてないけど、お姉ちゃん。ちゃんと二人に謝ってよね。社会人になってまで両親に迷惑かけちゃダメだよ』
「うん、ごめん。近々一度、家に帰るから。本当にごめん……」
最後の方は申し訳なさでいっぱいになり、喉の奥がひりひり痛くなった。いい年して親に迷惑掛けて、しかも奥さんにまでこんな時に知られてしまって。きっとバチが当たったんだ。相手のことをよく知らないまま、ただ好きになって付き合って……結果不倫していたのだから。
萌からの電話を終え、携帯を閉じた。そして私は、律の顔を見る。
「……聞こえちゃった?」
「嘘、だろ?」
律の声が、強張っている。萌の大きな声が外に漏れ、律の耳にも届いたのだろうと思っていた。そして彼の顔が、その答えを表していた。
「黙ってて、ごめんね」
律に頭を下げたけど、律はそれを受け入れない。そのまま無言を貫き通し、素早く着替えてから荷物をまとめ、出て行こうとした。玄関の扉のノブに手を掛けたまま、一度だけ動きを止める。でも、私の方を振り向くことはなかった。そして律との別れのカウントダウンが、頭の中で鳴り始めた。
「……不倫してたのは過去とはいえ、俺はどうしても受け入れられない」
「うん」
「だから、ごめん」
「うん」
「別れよう、俺たち。少なくとも俺は、無理……」
私の答えを待たずに、律は部屋を去っていく。無情な扉が閉まる音だけが、耳に残っていた。
わかっていた。きっと「別れよう」と言われると思っていた。あれだけ不倫嫌いな律の隣に、過去一度でも不倫したことがある彼女なんて、最初からいてはいけなかったんだ。だからこれは、当然の結果。
「……うぅっ……っひ……」
声にならない声で、大粒の涙を零す私。手のひらに収まりきらないほどの涙が、さっきまで幸せでいっぱいだったシーツを濡らしていく。律との関係を涙で流してしまうように。